無知の知の知 | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

 

 

私たちは、実際のところ、「何も」 知りません、、秘密

 

 

私たちが 「知っている」 と思っているものは、、

 

そのすべてが、概念的な決まり事によって一時的に 「正しい」 とされているだけの、

 

 

仮の認識、一面的なレッテルであるにほかならないのです、、手

 

 

 

例えとして、、目の前の 「コップ」 ひとつ、、私たちはそれが何であるかを知りません、、

 

 

「コップ」 と呼ばれるものが、そこに現れていることは否定はできませんが、、

 

私たちがそれを 「コップ」 と認識する際の 「流れ」 を見てみたとき、、目

 

 

それが、「言語」 という貼り紙によって、半ば強制的に分断されているということ、、

 

そのレッテルが貼られたらば瞬時のうちに、、そこに疑いようのない確固とした形として、

 

 

実体を持った他から区切られた 「もの」 であるかのように、、「コップ」 が現れるといったところです、、メガネ

 

 

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というわけで、これはあくまで一例にすぎませんが、、

 

 

私たちが日常の中で、、価値観や出来事や何であれ、、どんなものに対しても、、

 

 

無意識的に 「それが正しい」、「それはこういうものだ」 などと思い込んでしまうために、、

 

その信念や観念にしがみつき、

 

 

それを所有し収縮しようという、、自我性のぎこちないエネルギーに気づいたときは、、ひらめき電球

 

 

 

ぜひともこう尋ねてみるといいでしょう、、合格

 

 

「私が本当に知っていることは何か」 

 

 

その時、、今ここに在るというこの広がり、あるいは空っぽさ以外に、、富士山

 

私たちが絶対的な確かさで知っているものなど何もないという 「無知」 に目覚めると、、

 

 

 

信念は溶解し、観念の魔法は弾け去ります、、花火

 

 

そして、何も信じる必要はないということ、すべてが 「分かり得ない」 ものであるということに安心を見出すようになります、、虹

 

 

※この発見を、、ソクラテスは、無知の知、、釈迦は、無分別智などとポイントしたとされています、、お願い

 

 

 

 

というわけで、年始に参照した溝口あゆかさんの投稿@フェイスブックをここぞとばかりに再シェア、、ハロウィン

 

 

2018年の誓い♪

 

すべてを疑い、何も信じない!
   
私は~~~
あの人は~~~
社会は~~~
世界は~~~
という頭のおしゃべりはもちろん、
   
真実とは~~~
精神性とは~~~
生きる目的とは~~~
愛とは~~~
という正しそうな思いもぜんぶ、
   
そして、
私は女だ~
私は人間だ~
私は存在している~
という事実にしか思えないものも、
   
ぜんぶ信じなかったら?
   
何一つ信じない、すべてがあいまいで未知になり、
何一つ頼れるものがなくなって、
自分がいるのかも
何もかも分からない
徹底的にまったく分からなくなって、
    
でもどうしても最後に唯一疑えないもの、
確かに信じられるものが一つ残るはず。
    
それと出会って
それで生きてみたい

 

 

皆様、本年も引き続きよろしくお願いいたします♪

 

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ