私たちは、実際のところ、「何も」 知りません、、
私たちが 「知っている」 と思っているものは、、
そのすべてが、概念的な決まり事によって一時的に 「正しい」 とされているだけの、
仮の認識、一面的なレッテルであるにほかならないのです、、
例えとして、、目の前の 「コップ」 ひとつ、、私たちはそれが何であるかを知りません、、
「コップ」 と呼ばれるものが、そこに現れていることは否定はできませんが、、
私たちがそれを 「コップ」 と認識する際の 「流れ」 を見てみたとき、、
それが、「言語」 という貼り紙によって、半ば強制的に分断されているということ、、
そのレッテルが貼られたらば瞬時のうちに、、そこに疑いようのない確固とした形として、
実体を持った他から区切られた 「もの」 であるかのように、、「コップ」 が現れるといったところです、、
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というわけで、これはあくまで一例にすぎませんが、、
私たちが日常の中で、、価値観や出来事や何であれ、、どんなものに対しても、、
無意識的に 「それが正しい」、「それはこういうものだ」 などと思い込んでしまうために、、
その信念や観念にしがみつき、
それを所有し収縮しようという、、自我性のぎこちないエネルギーに気づいたときは、、
ぜひともこう尋ねてみるといいでしょう、、
「私が本当に知っていることは何か」
その時、、今ここに在るというこの広がり、あるいは空っぽさ以外に、、
私たちが絶対的な確かさで知っているものなど何もないという 「無知」 に目覚めると、、
信念は溶解し、観念の魔法は弾け去ります、、
そして、何も信じる必要はないということ、すべてが 「分かり得ない」 ものであるということに安心を見出すようになります、、
※この発見を、、ソクラテスは、無知の知、、釈迦は、無分別智などとポイントしたとされています、、
というわけで、年始に参照した溝口あゆかさんの投稿@フェイスブックをここぞとばかりに再シェア、、
2018年の誓い♪
すべてを疑い、何も信じない!
私は~~~
あの人は~~~
社会は~~~
世界は~~~
という頭のおしゃべりはもちろん、
真実とは~~~
精神性とは~~~
生きる目的とは~~~
愛とは~~~
という正しそうな思いもぜんぶ、
そして、
私は女だ~
私は人間だ~
私は存在している~
という事実にしか思えないものも、
ぜんぶ信じなかったら?
何一つ信じない、すべてがあいまいで未知になり、
何一つ頼れるものがなくなって、
自分がいるのかも
何もかも分からない
徹底的にまったく分からなくなって、
でもどうしても最後に唯一疑えないもの、
確かに信じられるものが一つ残るはず。
それと出会って
それで生きてみたい
皆様、本年も引き続きよろしくお願いいたします♪
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ