キドラの憂鬱と微笑 -38ページ目

キドラの憂鬱と微笑

施設の介護の事 特に 認知症ケアの事
自分史 振り返り
ファンタジー文学

読むのも書くのも

随分ご無沙汰してしまいました。

記録しておきたい事は

数多あれど

多過ぎると億劫になってしまいます。

世間的にはコレをズボラと言います。


最近考えていた事なんですが、

「多様性を認める事と、

   反権力の問題」です。

権威あるものや力あるものに対しては

抗ったり、

反抗したりするのが

当たり前だと思っていました。

表に出なくても、

「それは違う」と内心では思っています。

何十年か前の若者達は

それが一大勢力になるほど

当たり前でした。

最近の話題でいうと

高校の校則の問題があります。

髪を染めてはいけなくて

生まれつきの人は申告しなければならない、

何やコレは?と思ってしまいます。

こんな高校で教師でいる事も

ぼくは恥ずかしいように思うのですが、

大阪の公立高校の話なんですね。

年寄りはすぐ昔の話をするのですが、

もうすぐ高齢者なので、

ぼくの高校生の頃の話です。

「制服自由化」という議題が

上がっていました。

北海道の地方都市の話です。

ぼくが高校に行く前から

その問題はあったのですが

校庭で生徒達が制帽を焼き

全国紙で報道されるという「事件」が

ありました。

それはずっと引きずられた問題になり

ぼくが高校2年の時にやっと

全校集会で「制服自由化」が成立しました。

その後生徒会執行部は

教師達との折衝などがあったのでしょうが

その辺の事情は

一般生徒だったぼくは知りません。

今思うと、

当時の教師も親も

全校集会の生徒達の決議を

よく認めたものだと思います。

さて府立高校の問題は

生まれつき茶髪の子が黒く染めるように

指導され精神的、肉体的な苦痛を受け

不登校に陥り

司法に訴えたというものです。

この訴えは至極当然な事です。

ぼくにはそう思えるのです。

そもそも髪を染めてはならない理由は

何なのでしょう?

生来茶髪の生徒には

逆に黒く染めて来いと言う。

という事は「髪を染める」ということには

別に問題はないのです。

つまり教壇から見て

黒一色の色に統一したいのでしょう。

「茶髪に染める子供は不良」という

ステレオタイプの考えが

教師、親、

大阪府庁などででかい顔した奴らには

あるのだと思います。

その根本には

「管理する」という考え方があり

異質なものを

あぶり出すということなのでしょう。

例えば、

生徒達の制服というものも

そういう類のものだと

当時の高校生は思っていたのです。

それに反抗し段取りを持って進めることを

制帽を焼いたところから

後輩へ後輩へと徐々に培って来たのです。

そして周りの大人達も

それを容認する事になっていったのです。

それは周りの大人達にも

権力という管理するものに対する

反発心があったのだと思うのです。

いつ頃からかそういう風土が

この国には無くなってしまいました。

政治から理念がなくなり

「現実的な事」である事が

より重要であるという錯覚が蔓延しています。

想像力のない頭で考える「現実的な事」は

異質な事は排除する、

その頭で管理するようになるので、

はみ出るものには何らの許容力さえ

持てなくなるのです。

「管理されるもの達は、

    画一化されて然るべきだ」という

傲慢な考え方。

さらにタチが悪いのは

「現実的な事」が大人だと思い込んでいる

キライがあるのです。

「理念」「理想」は子供のものという

潜在意識がはたらいているように

見受けられるのです。

管理される事を嫌う子供達こそが

反権力なのです。

その子供達が

多様性を許容できるようになった時、

少し民主主義に近づける気がします。