キドラの憂鬱と微笑 -128ページ目

キドラの憂鬱と微笑

施設の介護の事 特に 認知症ケアの事
自分史 振り返り
ファンタジー文学

「誤解を恐れずに言うならば」

という言い回しがあります。

誤解されるのは恐いので

ぼくはあまり使った事がないのですが、

昔、ある認知症に関して専門の医師の方が

「誤解を恐れずに言うならば、

   認知症の方以上に周りの家族の方達が

   大変な思いをされていらっしゃいます。

   皆さんの介護士のお仕事は

   そういう家族も助けるお仕事なのです。」

というような事を言われました。

多分その先生が言った言葉は

集まった介護士達を励ますつもりで

おっしゃったのだと思います。

ただぼくは誤解をしました。

言葉は正確に覚えていないのですが

ぼくの解釈は

「認知症の方は

   家族の社会的、経済的な活動を阻害する。

   だからあなた達の仕事は

   社会的な経済的な貢献になるのです。」

もちろん、

レスパイトケアという家族支援も

介護士の仕事である事は知っています。

しかしそれは家族を

社会的、経済的活動に

向かわせるものという風には

ぼくは考えてはいませんでした。

今でもそれはそう思っています。

実際におっしゃった言葉は

最初の言葉とぼくの勘違いの言葉の

間くらいかなとは思うのです。

でもその差は実はあまりないようにも

思うのです。

介護士を励ます事が

先生の意図ではあったのでしょう。

しかし

認知症の方が

家族に大変な思いをさせているとか、

家族の社会的、経済的な阻害になるとか、

やはり違うように思います。

人と人が出会う時

社会的有用性とか経済的効果とかを

前提にするものでしょうか?

そういう傾向が全体に強くなってきている

時代だとは思います。

でも本来の人間の関係なんて

気があうとか、なんか好きだとか、

いいとこあるね〜とか、

愛着があるとか、

そういう曖昧なものが

本質ではないのかと思うのです。

この人は自分にとって役に立つか?

もしくは社会にとって役に立つか?

というのは人を見る時に必要なのか?

他人は、あるいは人間は

何かの役に立つ為に

生きているのではないと思うのです。

一生懸命生きてきて、

たまたま認知症の症状が出る

病気になった人達です。

それでも記憶障害なので

さっき食べた事は忘れてしまう、

でも今空腹であれば

経験的にこれは食べていないからだ。

と、これは理論的です。

泊めてもらった食事もよばれた、

だから代金を払わなあかん、

アレ、さっきまであったお金がない

しまった盗まれた!

ここにも理屈がありますし

食べたらお金は払わなあかんという

律儀さもあります。

生きていく一生懸命さを感じるのです。

それで充分ではないのか?と

ぼくは思っています。


ぼくはやっぱり誤解は恐れた方が

良いのじゃないかと…。