夕張に住んでいました。
当時は炭鉱の町でした。
おそらくぼくの記憶する最初の風景が
この町です。
生まれたのは両親の実家のあった
小樽なのですが
その頃住んでいたのは
オホーツクに面した遠軽でした。
ぼくが生まれ1年足らずで
遠軽から夕張に移りました。
したがって遠軽の記憶は
ぼくの中には全くありません。
1〜5歳が夕張なのですが
記憶する場面はいくつもあります。
高校教師だった父が
夕張南高校(現在はこの校名はないそうです)
に赴任になってきたのです。
覚えている風景は
極めて懐かしい記憶なのです。
父は5年後余市に転勤になります。
この話は
一家が夕張を離れてからの出来事です。
1965年、
夕張南高校の演劇部は
北炭夕張炭鉱ガス爆発事故を題材に
「炭鉱(やま)は生きている」という
作品を上演しようとしていました。
北炭夕張は戦前から何度となく
爆発事故を繰り返しており
労働現場としては過酷だった事は
簡単に想像できます。
そして夕張南高校には事故に遭われた
家族を持つ生徒も何人かいたと言います。
ところが上演直前になり
南高校の校長から
上演禁止の命令がなされるのです。
理由は、
爆発事故の問題は未解決、
事実に即しすぎ、
労働者意識が強すぎる、
というものでした。
この事件にはおそらく背景として
夕張南高校事件と言われる
年次有給休暇に関する労働争議が
あると思われます。
春闘の為に年次有給休暇をとろうとした
教員に対し
学校の多忙を理由に校長は有給休暇の
変更を求めたのですが、
聞き入れなかった教員を懲戒処分にした、
というものです。
この校長は労働運動に対し
かなりの偏見を持っている人で
権力側の意図を
忖度するタイプの人のようです。
特に演劇に対しては
性根から毛嫌いしているようでした。
実はそれから7年後
ぼくはそれを思い知る事になります。