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キドラの憂鬱と微笑

施設の介護の事 特に 認知症ケアの事
自分史 振り返り
ファンタジー文学

2000年に

介護保険法が施行されました。

それ自体は活気的な事でした。

それまでは

高齢者の「扱い」は

行政が措置として振り分けていました。

つまり行政が「やってやる」式に

処理していたのです。

この人は「痴呆」だから

強制入院させなさいとか

この程度なら家族でみなさいとか

養老院に入所させるとか

いずれにしろ選択権は行政が

握っていました。

介護保険法以後

名目上は選択権は高齢者の側に移りました。

サービスを選択できると言います。

しかし現実は

「やってやる」式の考え方は

無くなってはいません。

ぼくは高齢者施設で働いていますが

入所してくる入居者さんは

ほとんどの方々が

「家族にだまされて連れて来られた」と

おっしゃいます。

もちろん自ら進んで来られる方も

いらっしゃいますが少数派です。

大正〜戦前生まれの高齢者の方は

遠慮深いというか

権利を主張する事が不得手です。

その事が

介護保険制度の下でも

「やってやる」式の発想がついてまわる

1つの要因になっているのではないかと

思います。

しかしより根本的な問題は

介護保険制度の基本理念である

高齢者の尊厳を保ち人権を尊重する事が

身についていないからだと思います。

高齢者だけではなく

他者の尊厳を保ち人権を尊重する事が

そもそも日本人には身についていないのだと

思うのです。

「措置制度」から「介護保険制度」に

変わっても

運営する側の意識が変わらなければ

「介護保険制度」という「措置」なのです。

介護する側も

介護福祉士であっても

旧態依然な「措置」意識を

持ち続けている人は多いと思うのです。

少なくても「やってやる」式の

考え方はなくなってはいません。

自分がそういう意識を持っていないかを

常に自分で検討できる人間でありたいと

思います。

言葉は変わっても

意識は昔のままという意味では

「痴呆」「ボケ」という言い方が

「認知症」になった事もそう言えると

思います。

「痴呆」「ボケ」という言葉が

侮蔑的なニュアンスがあるという事で

2004年に厚生労働省が公募で

「認知症」という言葉に統一しました。

しかし現在では

認知症を「認知」と省略する人を

よく見かけます。

この言い方を

侮蔑的と感じる家族が多いというのを

読んだ事があります。

「あの人は認知に精神が入って

   ややこしい」など

もはや侮蔑的であり差別的です。

言葉が先行し意識がついていけない事象は

実は色々な場面で感じます。

自分の中の意識を変えていかなければ

なりません。