1年生の時は3年生もおったのですが、
2年生から入部したぼくは
全て同学年の時代しか知りませんでした。
当時はベトナムが
まだアメリカと戦争をしていた頃で
ぼくたちの地区大会での演し物は
「手術」という
南ベトナム解放戦線の兵士たちが
怪我をしたアメリカの黒人兵の
手術をするかどうかで
悩み葛藤する姿を描いた群像劇でした。
原案は顧問の先生が書き
自分たちの手で手直しした脚本でした。
その作業の中で
本多勝一氏の「戦場の村」「北爆の下」を
読んでいました。
ぼくたちは地区大会で優勝し
釧路で行われる全道大会にコマを進めました。
当時は小樽釧路間は夜行列車で
12時間くらいかかったと記憶しています。
いや、16時間くらいかなぁ〜。
富良野あたりで朝を迎えた記憶があります。
釧路の全道大会では
我が校は無残な敗退でした。
ただぼくらが影響を受けたのは
釧路の全高校が集い
多幕ものの芝居をうつ
「合同公演」を企画し成功させたという
報告を受けた事でした。
実は道内の「合同公演」のさきがけは
小樽地区であったらしいのです。
だいたいぼくら高校演劇部がやる芝居は
30〜60分の一幕ものがほとんどです。
部員数などに限界があり
大道具、小道具や宣伝などの裏方を
役割分担しなければならない
多幕ものの演劇は一校だけでは
難しいのでした。
7〜8校の高校が集まれば
それが可能になるのです。
しかし例えば
公立私立の問題や
普通科高校と専門高校の問題など
各校の壁を乗り越えるのは
並大抵の事ではありません。
我が校演劇部は各校演劇部に
「合同公演」を呼びかけました。
受験校としてお高くとまっていると
見られていた我が校は
おおむね反発を受ける事になりました。
何度となく議論を積み重ね
互いに顔を合わせる回数が多くなると
親しくもなってくるもので
「野っ原でもいいからやろうや!」という
いささか乱暴な意見に一同納得し
小樽の「合同公演」がスタートするのです。
ところがここに登場するのが
あの夕張南高校演劇部上演禁止事件の
例の校長なのです。
この校長、仮に名前をN校長としましょう。
校長Nは実はこの時
小樽の我が校とは別の普通科高校に
転勤になってきていたのでした。
もちろん校長として。
Nは自分の高校の演劇部は
「合同公演」には参加させぬと
言ってきたのです。
せっかくの盛り上がったムードに
まさに水を差す行為でした。
各校演劇部の部員たちは腹を立て
Nに直談判しようと集団で向かおうとした時
我が校演劇部顧問が止めに入りました。
「みんなの気持ちはよくわかる。
しかしここは我々教師に任せて欲しい。」
Nは強行な姿勢をなかなか崩さず
折衷案として演劇部としては
参加を認めないが
個人としての参加は認めるという
結論になりました。
3人が参加する事になりました。
脚本に選んだのは、
山田洋次監督の「同胞」に登場する
「統一劇場」という劇団の
町工場で働く労働者達を描いた
ミュージカル劇「希望」でした。
「統一劇場」主催者の木村快氏や
劇団員の方達ともお話しする事もでき
アドバイスももらえました。
「合同公演」のメンバーの中には
高校卒業後、
「統一劇場」に入ったものもいました。
映画「同胞」の中の
劇中劇でドラムを叩いている男です。
映画「同胞」には
「野っ原でもいいからやろうや!」という
言葉も使われていました。
「合同公演」は
席数1200ほどの小樽市民会館が
満員になるほどの盛況でした。