みなさんこんにちは、ヒスペディアです。本日から新章、ヒッタイトに入ります。教科書の項目では「古代オリエントの統一」です。古代オリエント世界を振り返ってみましょう。バビロン第一王朝が滅び、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトといった王国が乱立したところまでをこのブログでは扱いました。この乱立状態を収めたのは、新興のヒッタイトでした。教科書を見てみましょう。

 前2千年紀初めに北メソポタミアにおこったアッシリア王国は、小アジア方面との中継貿易によって栄えたが、前15世紀には、一時ミタンニ王国に服属した。しかしその後独立を回復し、鉄製の武器と戦車・騎兵隊をもちいて、前7世紀前半に全オリエントを征服した。

 最初は強くなかったアッシリアが下克上を起こし、オリエントを統一させた。歴史には何が起こるかわからないものです。ではケンカを売りましょう。

 すごい国のクセになんで影薄いんじゃ!!

 申し分ない帝国であるはずのアッシリアはなぜか知名度が低い。巨大な帝国ならば有名な王の一人ぐらいいてもいいものだが、アッシリアは最盛期のアッシュルバニパル王が教科書の写真で説明されているくらいで、本文には王の名前がない。地中海の小国イスラエルの王が、本文でダビデ・ソロモンと二人も紹介されたことを考えると不思議である。

 アッシリア王国が崩壊してから現在に至るまでに認知度はあったのか。実は『旧約聖書』に記載があるくらい非常に有名な国家である。ただし、北のイスラエル王国を滅ぼした敵として有名であるが。部分的にしか登場しないことから、名前は知っているが実態は良く分からない国、という認識であったのだろう。エジプトやバビロニアと違って、アッシリアが後世にわたって文献を残していないことも、実態を不透明にさせた原因なのだろう。アッシリアが実在の国であるかすら、怪しまれていた。

 現在、アッシリア学という言葉がある。メソポタミア文明全般に関する学問を意味するが、なぜアッシリアの名前がつけられているのだろう。それは、アッシリア王国の首都ニネヴェが、近代において最初に発見されたメソポタミアの都市であるからだ。『旧約聖書』の内容が事実がどうかという疑問から、近代の歴史学は始める。アッシリアもその例外ではない。