何となれば、そこで語られる言葉は、われわれの言葉ではないからである。所詮、現代の寄席は旧い言葉を語る民衆と共に、いつかは滅び行く運命をもつてゐるのだらう。
今日の民衆は、かくて、「彼等によつて語られる言葉」の魅力を、最も皮肉なことには、かの映画館の中に求めつゝあるのである。
映画説明者は、事実、「漫談」なる現代的寄席芸術の一様式を案出したのであるが、これがどこまで発達するか、今のところ疑問である。
最近、ラヂオで「映画物語」といふ変なものが放送されるが、私は、いつか、偶然それを聴いて、こいつは何かになると思つた。
ラヂオ・ドラマといふ形式についても、いろいろ考へたのだが、結局、擬音といふやうな機械的な効果はそれほど問題ではなく、「語られる言葉」のあらゆる効果と、その効果による聴取者の想像力が、将来のラヂオ・ドラマを決定するのだと思つてゐる。
この種の想像力は、ある程度まで舞台演劇の鑑賞にも必要であつて、能や歌舞伎劇の多くは、就中、その著しい例であるが、ラヂオ・ドラマは、特に、この想像力を極度に利 用すべき表現形式を取らねばならぬ。
