1276年、元軍に臨安府を占領され、事実上瓦解した南宋の王族の一部が更に徹底抗戦したものの、
1279年2月、元軍はついに広州湾・香港近くの崖山という島に砦を築いて抵抗していた南宋残党軍を全滅させ、南宋は完全に滅亡したという。
同年、フビライは4年前に送った使者・杜世忠が鎌倉で斬首された事を知らずに、周福という者を正使として5名の使者を日本に送る。
しかし、周福以下5名もまた、日本で斬首されたのである。
しかも、今回は鎌倉に送られる事も無く、太宰府で。
そしてこの時、大陸に逃げ帰った水夫からの情報により、フビライは初めて使者が日本で斬首された事を知り、激怒したらしい。
とりわけ、4年前の使者・杜世忠がただの使者では無く、『礼部侍郎』という高官だったにも拘わらず斬首された事に腹を立てたと言われている。
これが二度目の日本遠征に繋がったという説も有るのだが…。
歴史は常に動いている。
1279年2月、元軍はついに広州湾・香港近くの崖山という島に砦を築いて抵抗していた南宋残党軍を全滅させ、南宋は完全に滅亡したという。
同年、フビライは4年前に送った使者・杜世忠が鎌倉で斬首された事を知らずに、周福という者を正使として5名の使者を日本に送る。
しかし、周福以下5名もまた、日本で斬首されたのである。
しかも、今回は鎌倉に送られる事も無く、太宰府で。
そしてこの時、大陸に逃げ帰った水夫からの情報により、フビライは初めて使者が日本で斬首された事を知り、激怒したらしい。
とりわけ、4年前の使者・杜世忠がただの使者では無く、『礼部侍郎』という高官だったにも拘わらず斬首された事に腹を立てたと言われている。
これが二度目の日本遠征に繋がったという説も有るのだが…。
歴史は常に動いている。