建仁3年(1203年)9月5日、病状が少し回復した二代将軍・頼家は、その三日前にあった比企氏滅亡の件を知って激怒したという。
頼家は、亡き父・頼朝の挙兵の時から付き従ってきたという堀親家に“打倒・北条時政”の御教書を持たせて、有力御家人・和田義盛の元へ行かせた。
しかし、和田義盛はこの御教書を時政に見せたのである。
結果、堀親家は暗殺されてしまい、これを知った頼家は自ら太刀を取り時政を討ちに行こうとするも、これは母・政子に止められたようだ。
その後、9月7日、政子の意思によって頼家は出家させられてしまい、
9月15日には頼家の弟・千幡を三代目の征夷大将軍として認める宣旨が朝廷から下されたという。
そして9月21日には北条時政を中心とした評議により、頼家の鎌倉追放が決められてしまい、
9月29日になると、頼家はかつて頼朝が軟禁されていた伊豆修善寺に下向したのである。
これが吾妻鏡に書かれた鎌倉幕府の将軍交代の顛末なのだが…。
歴史は常に動いている。
頼家は、亡き父・頼朝の挙兵の時から付き従ってきたという堀親家に“打倒・北条時政”の御教書を持たせて、有力御家人・和田義盛の元へ行かせた。
しかし、和田義盛はこの御教書を時政に見せたのである。
結果、堀親家は暗殺されてしまい、これを知った頼家は自ら太刀を取り時政を討ちに行こうとするも、これは母・政子に止められたようだ。
その後、9月7日、政子の意思によって頼家は出家させられてしまい、
9月15日には頼家の弟・千幡を三代目の征夷大将軍として認める宣旨が朝廷から下されたという。
そして9月21日には北条時政を中心とした評議により、頼家の鎌倉追放が決められてしまい、
9月29日になると、頼家はかつて頼朝が軟禁されていた伊豆修善寺に下向したのである。
これが吾妻鏡に書かれた鎌倉幕府の将軍交代の顛末なのだが…。
歴史は常に動いている。