鎌倉二代将軍頼家の側室・若狭局の父である比企能員(ひきよしかず)の一族は、実は源氏との関係がかなり深い。

平治の乱の後、頼朝は伊豆に流されたわけだが、既にこの時、奥州藤原氏の傍流との噂もある比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻、“比企尼(ひきあま)”が、頼朝の乳母を務めていたという。

頼朝の伊豆配流とほぼ同時に、比企掃部允は武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企)の代官となり、比企尼と共に任地に赴く。

比企尼はこの時から約20年に渡り、頼朝に食料等の仕送りを続け、援助していたらしい。

そして、やがて長女が嫁いだ安達盛長や、次女が嫁いだ河越重頼には、頼朝への忠誠を指示していたとも言われている。

更に、長女の娘と次女の娘は、頼朝の異母弟である範頼と義経に、それぞれ嫁いだという。

その後、男子の生まれなかった比企氏の家督を継いだのが、比企尼の甥であった能員だったのである。

源頼朝の背後を支えたのは北条氏、という印象が強く持たれているが、この比企氏、二代将軍頼家の時代には相当の権力者だったと思われる…。


歴史は常に動いている。