大規模な蜂起をした蝦夷によって多賀城を落とされた朝廷側は、藤原継縄(つぐただ)や藤原小黒麿を征東大使として相次いで派遣するも、その成果は芳しく無かったという。
782年、蝦夷への本格的な攻撃に踏み切った朝廷は、陸奥国鎮守府将軍に、万葉集編纂チームに名を連ねる“大伴家持”を任命する。
大伴家持とは、以前、隼人の反乱について書いたブログに記述した事があるが、かつて征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人の息子である。
万葉歌人として知られる親子が揃って、奇しくも反乱鎮圧の為に働いていたとは、あまり知られていない事実である。
歴史は常に動いている。
782年、蝦夷への本格的な攻撃に踏み切った朝廷は、陸奥国鎮守府将軍に、万葉集編纂チームに名を連ねる“大伴家持”を任命する。
大伴家持とは、以前、隼人の反乱について書いたブログに記述した事があるが、かつて征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人の息子である。
万葉歌人として知られる親子が揃って、奇しくも反乱鎮圧の為に働いていたとは、あまり知られていない事実である。
歴史は常に動いている。