「ピンチをチャンスに変えて」


「うぅぅ……やばい、やばいなぁ」
 小学校四年生の俺は、『ナックルキックボクシングジム』で毎週日曜日に開かれている子供教室に来ていた。
 だけど、練習中も休憩中も別のことで頭がいっぱいで、あまり集中できていなかった。
 すると、ジムの先生が心配した様子で近づいてきた。
「風翔くん、何だか今日は落ち着きがないみたいだけど、どうかしたのかい?」
「先生……それがさ、明日、クラスでスピーチしなきゃなんだ」
 そう、俺の頭を悩ませているのは、授業でクラスの全員が行う一分間のスピーチだった。内容は何でも良くて、原稿も用意して良いけど、ちゃんと皆の顔を見ながら話さないといけない。
「でも俺、人前で話すの、そんなに得意じゃねーから」
「へぇ、普段の君からはあまりそんな風には思えないけど」
「皆が俺の方を見てると、何か緊張するんだよ」
 普段、誰かと喋る時とはやっぱり違う。独特の緊張感があって、頭の中が真っ白になる。やらないで済むならやりたくないけど、そういうわけにもいかない。
「なるほど……それで風翔くんはピンチなわけだ」
「うん……先生、どうにかならない?」
 先生は俺が悩んでいると、いつも良いアドバイスをくれた。
 きっと今回も解決法を教えてくれるに違いない。
「残念ながら、どうにもならないねぇ」
「そんなぁ……」
 俺はガクッと肩を落とす。
 けれど、先生はそこで首を横に振った。
「ピンチっていうのはね、チャンスでもあるんだ」
「ピンチが、チャンス……?」
 どういうことだろう、と俺は首を傾けた。
「別に失敗したって良いんだよ。大事なのは、辛く苦しいことにも前向きに取り組むことだ。今から不安がっても仕方ない。やれることを全部やって、後は本番に挑もう。スピーチだったら、そうだな……やっぱり家で練習をしてみるのが良いと思う。お父さんやお母さんの前でやってみるのも良いね。それでもし本番に失敗しちゃったとしても、その時は何がいけなかったのか考えてみて、きちんと問題点が分かれば、必ず次に活かせるんだ。次はその対策をしてから挑めばいい。人はそうやって今の自分の限界を知ることで、成長に繋げていくものさ」
 先生が教えてくれたのは、俺の知らない考え方だった。
 俺は失敗することに怯えていた。だけど、失敗しても良いんだ。
 そこから学ぼう、と先生は言ってくれる。それは、俺に勇気を与えてくれた。
「わかった。俺、前向きに頑張ってみる」
「その意気だ。風翔くんならきっと大丈夫だよ。君はどんなピンチだって、むしろ笑って乗り越えていけるさ。今みたいに、ね」
 先生に言われて、俺は自分がいつの間にか笑っていることに気づいた。
 さっきまで胸の内を埋めていた不安は、不思議なことにどこかへと行ってしまっていた。


 翌日、いよいよ俺のスピーチの瞬間がやって来た。
 先にやっていたクラスメイトと入れ替わるような形で、俺は教壇へと歩いていく。自分が緊張しているのが分かった。
 先生に言われた通り、家での練習をしてきた。両親にも見てもらった。
 それでも、やっぱり本番とは違う。体が思うように動いてくれない。普段通りには出来ない。
 だけど、上手く出来なくたって良いんだ。もし失敗したら、それを次に活かせば良い。
 そう思うと、少し気が楽になった。教壇の上で軽く息を吐くと、俺はスピーチを始める。
 内容を書いた紙を持っていたが、何度も音読したことで、もうすっかり覚えてしまっていた。
 少し噛んでしまったり、声が上擦ってしまったりする。
 それでも、大きな失敗はないまま、無事にスピーチが終わった。クラスの皆が拍手してくれる中、俺は自分の席に戻った。
 ホッと一安心する。ピンチを無事に乗り越えることが出来た。
 先生が教えてくれたことのお陰だ。前までの自分ならこんな風には出来なかったように思う。成長を感じられた。
 ピンチはチャンスになる。目の前の出来ることから一つずつこなしていけば良い。
 俺はまた一つ、新しいことを先生から学んだのだった。