「負けるが勝ち」


 今日は毎週通っている『ナックルキックボクシングジム』の日で、今はトレーニングの真っただ中だ。みんな一生懸命に身体を動かしている。
 でも、僕の頭の中は別のことでいっぱいだった。
 それを見ていたのか、休憩に入ったところで先生が近づいてきた。
「どうかしたのかい、敬磨くん。今日は何だか少し様子がおかしいように思うけど」
「先生……」
 これまでも色々なアドバイスをもらって、救われてきた。
 だけど、今回ばかりは話すことを悩んでしまう。どうすれば良いかはそれほど難しくないことだから。真っ向から立ち向かえばいい。
 僕は先日、小学校であったことを思い出す。


「おい、敬磨! 今日の体育で俺と勝負しろよ!」
 休み時間、いきなりそんなことを言われた。クラスのいじめっ子のリーダーだ。
 この間、僕はいじめられていた子を助けた。だけどそれ以来、また僕にいじめっ子たちの矛先が向くようになってしまった。
 チクチクと嫌なことばかり言ってきて、何かと勝負しようとしてくる。僕を負かして良い気分になりたいのだろう。
「嫌だよ。僕は別に戦いたくなんてない。そういうのもうやめてよ」
 落ち着いて言い返した。何も言わずに我慢していたら、好き放題言われ続けるだけだから。
 だけど、彼らは前のように引いてはくれない。
「何だ、逃げるのかよ? なら俺の勝ち~! 弱虫!」
 そんな風に言って、勝ち誇った顔で楽しそうに教室を出ていく。
 僕は何だか嫌な気持ちになる。どうすれば良いのだろう。こういうことが続いているせいで、すっかり疲れてしまっていた。


「なるほど、そんなことがあったんだね」
 結局、僕は何があったのかを先生に話してしまった。
 だけど、これは僕が立ち向かわなければならないことだ。彼らにきちんと言わなければならない。もうこんなことはやめるように、って。先生だってそう言うに違いない。
 しかし、実際には意外な言葉だった。
「敬磨くん、そうやって悪口を言ったり嫌がらせをしてくる人を無理に相手にすることはないんだよ」
「えっ……」
「もちろん、悪口じゃなくて、君のこういうところを直した方がいいよ、っていうアドバイスなら別だよ。ちゃんと聞いて、そのことを考えてみてもいいと思う。だけど、そうじゃないだろう?」
 僕はコクリと頷いた。
「友達や家族のように、敬磨くんのことを好きでいてくれる人がいる。そういう人たちを大切にするべきだよ。君が苦しむ様子を見せていたら、その人たちが悲しむんだから。負けるが勝ち、という言葉もある。悪口を言ってくるようなつまらない人の相手はしない。それもまた強さなんだ」
「負けるが勝ち……」
 先生はいつも僕が思いもつかないことを教えてくれる。
 胸の中に詰まっていたもやもやは、気づけば薄れていた。


「おい、敬磨! 相変わらずちっちぇえなぁ! そうだ、今日の給食で早食い勝負しようぜ!」
 週明けの小学校、いじめっ子たちはいつものように絡んできた。
 そこで先生の言っていたことを思い出す。無理に相手にする必要はない。
 僕は言い返すよりも、呆れた表情で彼を見た。
「な、何だよ、その目は……」
「…………」
 何も言わない。ちゃんと相手をしようとは思っていないので、ただただ、冷たい目をする。
 すると、怯えたように彼は後ずさっていた。
「に、逃げるなら、俺の勝ちだからなっ」
「そうだね。それでいいよ」
 僕が興味なく言うと、彼はいつものように勝ち誇った顔じゃなく、すっかり言い負かされたような表情で逃げるように教室を出て行った。
 その背を見ながら思う。もうこんなことしないでくれるといいんだけど。
「何だぁ?」
 入れ替わるように風翔くんと健心くんが教室へと入ってきた。
「敬磨、またあいつに何か言った?」
 健心くんにそう聞かれたけど、首を横に振った。
「別に大したことじゃないよ。それより昨日のことなんだけど──」
 僕はわざわざ説明する必要もないと思い、別の話題を口にした。
 先生の言う通りだ。僕には仲の良い友達がいる。彼らを心配させない為にも、無理に苦しい思いをすることなんてない。僕は僕が大切だと思う人たちを大切にしよう。