帰国子女は順応性が凄い 「日本語のコミュニケーション」

娘が本帰国して日本の公立小学校の6年生に入れてもらって数週間経った頃、こう言ったのが親としてちょっと忘れられない。本人は忘れていると思うけど:「お母さん、日本ではね女子同士で話してるとき、違うなって思ってもうんうんって頷かないといけないんだよ。」そして帰国後数か月も経たないうちに彼女は見事に日本語のコミュニケケーションスタイルに順応したのだった。これが出来ない人を日本ではKYというんですよね。

日本語のコミュニケーションでは、「もう全然そう思わない」時もうんうんって適当に調子を合わせておくのが無難なんである。だから日本人同士日本語で会話するのは無駄に衝突しなくて済むから楽ちん。楽なだけではなくこれが日本語の美しくて正しいコミュニケーションスタイルなのも。
 
これが出来ないと、「あの人は帰国だからね。」って言われちゃう。「あの人は帰国」=「あの人はKY」=「あの人は自己中」という意味で云われるのですよね。
 
でも私の周りに大勢いた帰国の人ってKYじゃない人が圧倒的に多かった。一般的な帰国子女のイメージとは真逆ってことです。帰国子女は一般に順応力が高い。適応力が凄い。協調性もそう。残念ながら、とも言えますが。帰国子女は子供時代に異なった文化圏を行き来してその場所で生き延びるために順応することを体得する。若いから自然に順応できるし、順応できないと生きることが出来ないからそうするしかない。
 
日本でのコミュニケーションスタイルのまま英語喋ると理解してもらえない。「結局 [アナタ] はどう思うの?」ってね、詰め寄られたことがありませんか。我々には難しい。英語圏ではこういう展開になりがち。英語圏でなくても英語のコミュニケーションではよくあると言った方がいい。ローコンテクストの文化圏の人との会話ではよくこういうことになる。

[あなた]の意見は?って...そんなふうに聞かれてもなって思っちゃう。英語で喋ってても心は日本人です。考えや意見がないわけではない。毎度毎度主張することが習慣である人から見たら、私は何も考えてないただのバカか、如才なさ過ぎてズルいかのどっちかなんですね。
 
こういう私でも日本の外にいる時は勿論努力します。日本にいるのではないし日本語で喋っているわけではないし当然です。どうしても言わないといけないことや譲れないことについては意見します。幾らでも言いたいことがある。でも、友達へのお別れのプレゼントのを何にするだとか、中華とタイ料理屋のどっちにするだとかですね...どちらかといえば何でもアリだし、だから皆さんのお好きにどうぞって「親切心」から譲るんですけど、これが理解されることはない。こうした小さなことから「自分はどう思うか」を普通に言えるようにすることが第一歩なんでしょうね。どんな小さなことでも、どうでもよいこと(と自分には思われること)についても「自分がどうしたいか」「自分がどう思うか」が言えることが基本なのでしょうね。
 
だから私なんかは、「自分で決められない人」ということになっちゃう。だってホント中華でもタイ料理でもどーでもいいし、それより皆さんがハッピーになれる方の料理でいいし、お別れのプレゼントをスカーフにしようが帽子にしようが素敵な品物だったらどっちでもいいしね。コーヒーでも紅茶でもどっちでもいい。でも、「あの人は何を食べるかも決められない」「あの人は自分の意見がない」「あの人は本心を言わないから気を付けろ」「あの人は何か隠している。」って、そういうことになる。直接言われたこともあるし、陰で言われて他の人から聞くこともある。でもそういうあなた達が自分の流儀のまんまであるのと同じで自分も日本の文化を纏ったままでいいよね?って偏屈な自分は開き直りたいんだけど、ほぼ日本人は自分一人という場合が多いから無理。
 
「コーヒーにする、紅茶にする?」についてはもう「紅茶」ってことで決めてます。日本では勿論、「ミンナと同じでいいよ」って言います。で、「紅茶が飲みたいな。何があるの?」って聞くと、「見に来て。色々あるのよ。ダージリンにアッサム、アールグレイに緑茶、アップルティーもあるし・・・何がいい?」という流れになる。紅茶といっても日本と違って殆どの場合ただのティーバッグだし、お湯沸かすだけで済みますからね。本当はどっちでもいいし、お茶やコーヒーを入れてくれる人が苦労しない方がいいんだけど日本人的には。でもね、ここは「紅茶が飲みたいな」です。逆に相手に面倒をかけることになるから。相手を戸惑わせることになる。
 
他の文化圏から来たミンナはもっと全然凄い。「カフェインレスのコーヒーある?」とか、「カモミールティーがいいな」とか、「コーヒーにはミルクじゃなくて豆乳じゃないと飲めない」とか、「なんか白ワイン気分かも」とか。言われた方も普通に「白ワインあるよ」って冷蔵庫から出してくる。我々の気遣いは無駄です。でもこれがなかなか難しい。どんな言葉で話していても自分の中の日本人が居なくなることは一瞬たりともないし、居なくなる理由もないと思う。なぜ日本人の自分を殺さないといけないの?でもどういう反応が返ってくるかもう分かってるし、却って面倒だし、わかってもらえるはずもないから、彼等に合わせますが。
 
違う言葉を話すということは、違う自分を演じること。知り合いの中国の沈さんは(女性)日本語が出来る。日本語で電話なんかで話していると、中国人の友達に「なにブリッ子してんの?お上品ぶちゃって」と言われるそうで。沈さんもついついそうなっちゃうって認めてます。
 
それから自分の友達に数人います。日本語だと時折ちょっとキツイ物言いをする彼女たち、英語を喋ってたほうがずっと楽なんだそうです。英語で喋っていると水を得た魚のようです。
 
They are in their element when they're speaking in English.ですね。be in one's element -----> 水を得た魚
 
でもこうして切り替えるのも面白いんですよ。違う自分に出逢えるかも!です。これも外国語をやる一つの楽しみかな。