論RON――日蓮仏法の視点から 第20回 地涌の菩薩の群像ぐんぞう

御聖訓
 みな地涌の菩薩の出現にあらずんばとなへがたき題目なり」(諸法実相抄、御書1360㌻)

 中国男子部教学部長 宮地 俊和

 新時代を担う大学校生が躍動

 春4月――。新出発の季節が到来し、多くの人が清新な決意を抱く。希望に胸を膨らませて、新たな挑戦を開始する時、その生命は春の大地の萌芽ほうがのごとく、みずみずしい息吹に包まれる。本年、中国方面男子部では、3・16「広宣流布記念の日」60周年を飾る「世界青年部総会」に合わせて、幾多の男子部大学校生が立ち上がった。彼らの姿は、法華経に説かれる「地涌じゆ菩薩ぼさつ」そのものであり、同時に、かつての自身を思い出させてくれた。本稿では、「地涌の菩薩」の出現の意義と、その使命を確認したい。

“救われる人”から“救う人”へ

◆ オタクの集まり?
 幼少期の私は病弱で、ぜんそくの発作に苦しんだ。そんな私に、信心強盛ごうじょうな母が掛ける言葉は、決まって「題目で乗り越えるのよ」であった。背中をさすられながら、声にならない声で、一緒に唱題したことを、よく覚えている。
 母の祈りもあり、やがて、ぜんそくは完治。だが、思春期を迎えると、信仰に対して暗いイメージを抱くようになり、“創価学会はオタクの集まり”だと思い込んだ。
 学生時代、信心に後ろ向きだった私の元に、足しげく通い続ける学生部の先輩がいた。居留守を使ったり、追い返したりしたが、全く諦める様子がない。あまりの執念に“一度だけ顔を出せば、もう来なくなるだろう”と思い、18歳の時に初めて会合へ参加。これが人生の転換点となった。
 そこに集っていたのは、“オタク”ではなく、普通の学生たちがった。“今風”の金髪の人もいた。そんな彼らが「会計士を目指します」「バーテンダーになりたい」と、口々に将来の夢を語っていたのだ。しかも、皆が明るく元気で、自身の考えを率直に述べ合っているのに驚いた。
 特に目的もなく、何となく毎日を過ごしていた私にとって、それは衝撃的な光景だった。若い世代が宗教を実践しないこと・・・・・が「当たり前」という人生観・価値観が、いかに狭小きょうしょうであったかを痛感させられた。

◆ 動執生疑どうしゅうしょうぎへのなが
 池田先生の指導を学ぶうちに、私が経験した衝撃は、「動執生疑どうしゅうしょうぎ」とよぶことがわかった。あるスピーチで、池田先生はこう語っている。
 「ここで『動執生疑』について、述べておきたい。“聞いたことはあるが、よくわからない”――そういう人もおられるかと思う(笑い)。そうしたあいまいな点について、一つ一つ、明確にしていく習慣が、自分自身を充実させていく」(『池田大作全集』第83巻、108㌻)
 「『動執生疑』とは“
しゅうを動じ、を生ず”と読む。すなわち執着をり動かし、疑いを生じさせることである。
 わかりやすく言えば、小法への執着など、これまでの執着や、とらわれを
動揺どうようさせ、“これまでの考えは本当に正しかったのだろうか”と疑いを生じさせて、より高い次元へと目を向けさせていくことである」(同、109㌻)
 「動執生疑」は、天台てんだいの「法華文句ほっけもんぐ」に説かれており、もともとは、釈尊しゃくそん衆生しゅじょうみちびく方法の一つを意味する。先生はその本義を踏まえた上で、天台の師である南岳大師なんがくだいしに触れて「南岳大師の『動執生疑』が波紋を呼び、後に天台てんだい大師だいしの法華経講義が注目を集めていった」とも語られている(同第12巻、505㌻)。
 ここで、「法華経」のじゅう地涌じゆじゅっぽん第15で説かれた「動執生疑」への流れを確認したい。
 そもそも、法華経は、「釈尊滅後めつご弘教ぐきょうのため」に説かれた経典である。その主人公は誰なのか――「動執生疑」とは、この最重要のテーマに直結するキーワードである。
 法師ほっし品第10から安楽行あんらくぎょう品第14にかけて、その中心テーマは、釈尊滅後の弘教を「誰に託すか」であった。
 釈尊の説法を聞いていた菩薩たちは、勧持品かんじほん第13で「三類の強敵ごうてきが出現しても耐え忍び、弘教に励む」と誓いを立てる。その他の声聞しょうもんたちは、大変な娑婆しゃば世界をさけけて、他の国土で法を弘めることを望んでいた。ゆえに、釈尊から付嘱ふぞく委託いたくするの意)されるのは、当然、その場にいた菩薩になるだろうという展開だった。
 ところが、涌出品の冒頭で釈尊は「みね。善男子ぜんなんしよ」(法華経451㌻)と、菩薩の誓願を退ける。そして、それまでの展開を自らくつがえした上で、こう言葉を続けた。
 「なぜならば、この娑婆しゃば世界に六万恒河沙ごうがしゃの菩薩たちがいる。彼らが弘めてくれるからだ」
 その時、大地が裂け、金色に輝く無数の集団が現れる――これが「地涌の菩薩」である。六万恒河沙とは、インドのガンジス河の砂粒の数の6万倍で、無量の数を現す。そのリーダーは、上行じょうぎょう無辺行むへんぎょう浄行じょうぎょう安立行あんりゅうぎょう四菩薩しぼさつであった。
 会座えざの衆生は、地涌の菩薩が気高い姿をしていることに疑問を抱き、釈尊に問いを発する。
 すると釈尊は「われ久遠くおんこのかた是等これらしゅ教化きょうけせり」(同467㌻)と、久遠の昔から地涌の菩薩を教化してきたことを明かし、歴劫りゃっこう修行を積んで今世で初めて成仏したという「始成しじょう正覚しょうかく」の教えを根本からくつがえした。
 他方の菩薩たちは、それを聞いてさらに驚く。“世尊は、菩提樹ぼだいじゅの下で成道じょうどうしてから40余年しか経っていないはず……。
 弟子たちの間に、当然の疑問がわき起こったことを、先生は、こう解説している。
 「“なぜ釈尊が成道してからの短期間に、これだけ多くの菩薩を教化できたのか?”と。
この疑問に答える形で、
寿量品じゅりょうほんでは、仏の成道が永遠の過去にさかのぼることが明かされたわけである」(『池田大作全集』第83巻、109㌻)
 地涌の菩薩は、釈尊よりもはるかに年を重ね、立派な姿をしていた。それまでの弟子たちは、釈尊が、地涌の菩薩をわが弟子であるというのは、青年が老人をさして「我が子である」ということと同じではないか、と疑った。
 そこで大衆を代表して、高弟こうてい中の高弟である弥勒みろく菩薩が重ねて釈尊に質問し、涌出品は結ばれる。「どうしてこんなにたくさんの人たちを化導けどうし得たのですか?」と。
 弟子たちの一連の戸惑いこそ「動執生疑」であり、これが法華経の展開に与えた意義について、先生は次のように語っている。
 「動執生疑とは、それまでの信念が大きく揺らぐことです。いわば既成の世界観が根底から打ち破られるのです。人々が安住している価値観を、劇的に打ち壊すことによって、釈尊の本地ほんじ――真実の境涯が解き明かされていく」(普及版『法華経の智慧』[中]142㌻)
釈尊は、弥勒菩薩の質問に答える形で、如来にょらい寿量品じゅりょうほん第16に入って、久遠の過去に成道していたという永遠の大生命(久遠実成くおんじつじょう)を説き明かした。いわば、地涌の弟子たちの出現によって、偉大なる師匠の大境涯が示されていったのである。

◆ 使命に生き抜く
 私も先輩や同志との出会いを機に、信心に励むようになった一人だ。父は、わが家の広布と師弟の歴史を繰り返し教えてくれた。
 その中で、「自分のため」だけだった生き方が、「人のため」「広宣流布こうせんるふのため」という生き方に変わっていった。
 かつて私は、進路の悩みに直面していた際、先生が出席する会合に参加。「私の最後の事業は教育である」との師の言葉を聞いた時、自らの使命の道を定めた。
 その4年後、高校の教員として地元・埼玉から鳥取へ。赴任の報告を聞いてくださった先生から「勝利」の2字が入った短冊たんざくと真心の激励を頂き、人生の勝利を誓った。
 だが、現実は苦悩の連続だった。相次ぐ退学者、妻の病、重なる辛労から潰瘍かいようわずらったこともあった。この時、「『地涌の菩薩』の使命を果たさせてください」と、御本尊に真剣に祈り、折伏に挑戦した。
 すると、不思議にも悩みを抱えた人と巡り合い、仏法対話が結実。やがて職場の状況は一変し、一家の苦境などの宿命も、一つ一つ乗り越えることができた。
 日蓮大聖人は仰せである。「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(大悪大善御書、御書1300㌻)
 悪世あくせ末法まっぽうにおける弘教は、難事中の難事である。しかし、その最も大変な時に、地涌の菩薩は喜び勇んで“躍り出る”との御文を身で拝することができた。
 小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜こうせんふ」の章で、先生はつづっている。
 「学会の実践の中に、地涌の菩薩の実像があり、崩れることのない幸福境涯を確立する直道があります。どうか、生涯、学会から離れず、地涌の使命に生き抜き、幸せになってください」
 「地涌の使命」に生き抜く道を教えてくれた両親や先輩・同志、何より師匠への感謝は尽きない。

◆ 民衆の心の大転換
 法華経において「地涌の使命」が明確に示されたのが、如来神力品にょらいじんりきほん第21である。ここに至って初めて、地涌の菩薩が、成仏の肝要の法を人びとに教え弘めていくことを誓願し、釈尊から付嘱を受ける。釈尊滅後の弘法の主人公が定められたのだ。
 法華経を身読しんどくされた末法まっぽう御本仏ごほんぶつ日蓮にちれん大聖人だいしょうにんは、地涌の菩薩の上首じょうしゅ(最高位の者、中心者)である、上行菩薩の御自覚に立たれ、末法広宣流布の基盤を確立された。
 では、その大聖人に続く地涌の菩薩の要件とは何か――。
 「諸法しょほう実相じっそうしょう」では「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」「みな地涌の菩薩の出現にあらずんばとなへがたき題目なり」(諸法実相抄、御書1360㌻)と仰せである。
 他の御抄でも拝せるように、大聖人と同じ決意に立ち、題目を唱える人こそ地涌の菩薩なのである。
 現代において、世界中に題目を弘め、大聖人が仰せの地涌じゆ(同㌻)を現実のものとしたのは、私たち創価学会であり、なかんずく三代会長である。
 その地涌の陣列は、平和・文化・教育の各分野にわたって世界を結んでいる。
 創価学会にとっての「地涌の使命」の自覚――。
 その起点は、第2代会長の戸田城聖先生が、戦時中に正義の信念を貫いて投獄とうごくされ、獄中ごくちゅうにあって「われ地涌の菩薩なり」と悟達ごだつしたことにある。
 戦後の混乱の中、草創の同志は、病苦や経済苦などの宿命を抱えながら、「地涌の使命」に目覚め、広宣流布へ東奔西走とうほんさいそうした。その胸中には“救われる人”から“救う人”へ、自発じはつ能動のうどうの信心が輝いていた。この「民衆の心の大転換」にこそ、学会の存在意義はあるのだといえよう。

◆ 堅固けんごな人材城を
 本年11月、「広宣流布大誓堂だいせいどう」が完成5周年を迎える。
 池田先生は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生への報恩を込めて「広宣流布 誓願の」の碑文を認められました。そこには、報恩抄の一節が引かれている。
 「日蓮が慈悲じひ曠大こうだいならば南無妙法蓮華経は万年のほか・未来までもながるべし」(報恩抄、御書329㌻)
 末法万年にわたる世界広布――その全ては「人」で決まるのだ。「弟子」で決まるのだ。
 意義深きこの時に、各地で陸続と躍り出た男子部大学校1期生は、まさに仏の誓願に呼応した「地涌の菩薩」の群像ぐんぞうである。
 広島のあるメンバーは、長い引きこもり生活におちいっていたが、今年、大学校に入校。初めて会合に参加するも、まともに人と話せずにいた。
 「彼は引きこもりで仕事をしておらず、人と上手に話すこともできません。でも、そんな彼が、きょう初めてスーツを着て、会館に来てくれました。それ自体が、すごい勇気だし、彼のすごいところだと思います」
 この言葉を聞いた大学校生は涙を流し、新しい“一歩”を踏み出し始めました。
 自分をわかってくれる人がいれば、必ず前進の一歩を踏み出せる。地涌の陣列の拡大とは、一人一人の可能性を信じ、引き出す“励ましの拡大”でもあろう。
 法華経の「動執生疑」を通して、先生は、こうも語っている。
 「創価学会は、地涌の菩薩の出現である。その行動は、事実のうえで、社会に“動執生疑”の波を広げてきた。これまでの小さなワクにとらわれた人々の心を揺さぶり、揺り動かしてきた。
 動執生疑とは、いわば、そうした『変革』の原理であり、現実社会をダイナミックに、新しい大きな地平へとリードしていく行動である。
 私どもの運動は、法華経のとおりの軌道で進んでいる」
(『池田大作全集』第83巻、109㌻)
 さらに、次のようなリーダー論にも展開されている。
 「敵が紛然として競い起こり、世間が騒げば騒ぐほど、それが動執生疑となって、正法に縁する人も多くなる。『なんそく拡大かくだい』こそ、広布前進の一つの方程式といってよい。
 いずれにせよ、たとえ世間が騒然となったとしても、“またこれで信心が鍛えられる。新しい大発展の好機である。ありがたいことだ”と、莞爾かんじと微笑んでいくぐらいの余裕と沈着ちんちゃくさをもって、同志を守りゆく、広布のリーダーであっていただきたい。すべてを大きな心でつつみ、つねに希望をつくり、喜びを与えゆくリーダーであっていただきたい」
(同第77巻、223㌻)
 中国方面では、今月22日に岡山で開催される「全国男子部幹部会」に向け、行学の錬磨に挑む大学校生を先頭に、皆が勇気の対話を繰り広げている。
 さらに7月には、方面歌「地涌の讃歌さんか」が鳥取・米子よなご文化会館で誕生して40周年の佳節。
 「ずる中国 人の城」――師匠が歌詞に込めた万感の期待に応えるべく、報恩の心で、堅固けんごな人材城の建設を誓う。

 (2018年4月4日付 創価新報)より