ユーラシア大陸の最西端にあるポルトガルの首都リスボン。
“七つの丘の街”とも呼ばれ、美しい街並みが広がる(2011年、本社カメラマン撮影)



 立ち並ぶ赤い屋根が美しい。市街の向こうに見える川は、ほどなく大西洋に注ぐ。きょうも数多くの船が、ここから広大な世界へと出航していく。
 ポルトガルの首都リスボン。高台に立つ「サン・ジョルジェ城跡」からの眺めである。
 リスボンは、海上交易の拠点として、紀元前の昔から栄えてきた。
 河口の近くには「新航路発見の記念碑」がある。完成は1960年。大航海時代を開いたエンリケ航海王子(1394年~1460年)の没後500年を記念したものである。
 “資源の少ない小国”にすぎなかったポルトガル。21歳のエンリケ王子は、大ポルトガルをつくるため、東方への「新航路」を発見しようと決意していく。海岸近くに移り住み、優秀な学者・技師・船乗りを集め、最先端の航海術・地理学などを取り入れた。
 実験航海を繰り返すものの“新航路”はなかなか見つからない。実は船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしなかったのである。
 それが「ボジャドール岬」。そこから先は、怪物たちが住み、海は煮えたぎり、滝となって落下していると、中世以来、信じられてきた。エンリケが岬を越えるよう命じても、船乗りたちは背き続けた。エンリケをだまして別の針路をとる者もいた。
 15年目、とうとうエンリケは言った。
 「もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの意見に過ぎないではないか。しかもその連中というのは(中略)羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」(ダンカン・カースルレイ著、生田滋訳『図説 探検の世界史1』集英社)
 何も知らない者たちのうわさにだまされるな!――エンリケの叱咤に、一人が声を上げた。
 「行こう! 岬を越えよう!」
 そして1434年、ついに岬を越えたのである。
 実際に行くと、“向こう側”には、穏やかな海が広がっていた。カナリア諸島から、わずか240キロなのだから、当然ともいえる。
 だが、ボジャドール岬を越えた意味は大きかった。中世の迷信が打ち破られたからである。エンリケの死後、アフリカ南端の喜望峰の発見(88年)、インドへの新航路発見(98年)と続き、ポルトガルは“海の覇者”“時代の勝者”となっていった――。
 池田先生は1965年10月27日、ポルトガルを訪問。リスボンにあるサン・ジョルジェ城跡や、「新航路発見の記念碑」へ足を運んだ。
 小説『新・人間革命』「新航路」の章に、その時の様子がつづられている。
 山本伸一は記念碑を見上げつつ、同行の友にエンリケ王子の事績と後のポルトガルの繁栄を語り、こう続けた。
 「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。
 大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書1282ページ)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。
 広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の“臆病の岬”を越えることだ」

 先生の訪問当時、ポルトガルにSGIメンバーは一人もいなかった。
 その後、ポルトガルSGIの友は、この先生の指針を胸に、広布と友情を拡大。2009年には、法人として正式に登録された。今や青年部が拡大の先頭に立つ、世界模範の“青年学会”として躍進する。
 広布と人生を開くのは勇気。人と会うにも、対話をするにも勇気が必要だ。だが、それは相手に対してではない。“新しい挑戦を恐れる自分”“苦労を避けようとする自分”との戦いだ。
 万事、やってみなければ分からない。思い切って足を踏み出せば、必ず新しい景色や新しい自分が見えてくる。

 本当の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないこと。さあ、わが“臆病の岬”を越え、栄光の大航海に出発しよう。


 (2018年2月19日 聖教新聞 「〈世界写真紀行〉第30回 ポルトガル・リスボンの街並み」)より