『日蓮仏法は、「挑戦」の宗教である。
妙法とともに、月月(つきづき)・日日(ひび)に蘇生した生命力で、たゆまず新たな価値を創造する挑戦だ。
御書とともに、人生のいかなる試練、なかんずく自他共の生老病死の苦悩を打開する挑戦だ。
同志とともに、現実社会の課題に立ち向かって、幸と平和の連帯を広げゆく挑戦なのである。
御本仏・日蓮大聖人は、熱原の法難の渦中、21歳の南条時光に烈々と呼び掛けられた。
「願わくは我が弟子等・大願ををこせ」(1561㌻)
そして、法華経の一文(いちもん)「願わくは此(こ)の功徳を以て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成(じょう)ぜん」(同㌻)を贈られたのである。

飛行機雲の如く真っすぐに、英雄の如く勇敢に、大願の人生を歩み抜こう(池田先生撮影)
題目を唱え、「広宣流布の大願」に挑む生命は、妙法と一体であり、仏と一体である。ゆえに、宇宙大の功力が漲(みなぎ)らないわけがない。
だからこそ、競い起こる難を勝ち越えて、縁する家族も、友人も、眷属も、「一生成仏」という永遠の幸福の軌道へと、確かに牽引していけるのだ。
地涌の菩薩とは、いかなる存在か。時を逃さず、自ら誓い願った天地に躍り出て、久遠元初(くおんがんじょ)からの使命を果たしゆく「挑戦」の勇者に他ならない。わが学会こそ、地涌の挑戦のリズムが脈打つ陣列なのだ。
私の胸には、大関西の草創の母の叫びが蘇る。
「寝ても覚めても、みんな幸せになって欲しゅうて、人材が欲しゅうて、一心に歩き回りました」と。
創価とは
挑戦王の
異名なり
溢れんばかりの
勇気で勝ち切れ
いくつになろうと、挑戦を止めない信仰者の命は、ますます若々しく、ますます朗らかに冴え光る。
「いよいよ強盛の御志(おんこころざし)あるべし、冰(こおり)は水より出(い)でたれども水よりもすさ(凄冷)まじ、青き事は藍(あい)より出でたれども・かさ(重)ぬれば藍よりも色まさる」(1221㌻)と御聖訓に仰せの通りである。
法華経の会座では、年を重ねて疲弊(ひへい)していた長老たちも、未だかつてない師匠の師子吼に歓喜踊躍(かんきゆやく)し、生まれ変わった息吹で、今再びの挑戦を開始した。
信心の心は自在であり、誓願の祈りは無限である。
「いままで・しり(退)ぞかせ給わぬ事申すばかりなし」(1224㌻)――健気な母を讃えられたこの一節は、創価の多宝(たほう)の父母(ちちはは)への御賞讃(ごしょうさん)と拝されてならない。

さあ行こう! 新たなる栄光の峰へ、挑戦の時は今だ(1997年2月、香港総合文化センター)
わが師・戸田城聖先生は、「信心こそ惰性(だせい)を打ち破って、自分も家庭も地域も、1つ1つより良く変えていくための挑戦である」と指導された。
どんな小さなことでもよい。具体的に明確に祈りながら、新しい何かにチャレンジしていくことだ。
1日に1人でもよい。真心込めて声をかけ、励まし、仏縁を結んでいくことだ。
「3・16」の後継の儀式から60周年――。今、うれしいことに、華陽の乙女、創価の若師子、普賢(ふげん)の俊英(しゅんえい)が潑剌(はつらつ)と地涌の拡大に挑んでくれている。
この若人たちと共々に、わが地域に新たな「挑戦の友」を1人また1人、増やしていこうではないか!
栄光は、朗らかな「挑戦王」にこそ輝くのだから!』
(『大白蓮華』 2018-2 聖教新聞社)より
『日蓮仏法は、「挑戦」の宗教である』――と。
1.妙法とともに、月月(つきづき)・日日(ひび)に蘇生した生命力で、たゆまず新たな価値を創造する挑戦。
2.御書とともに、人生のいかなる試練、なかんずく自他共の生老病死の苦悩を打開する挑戦。
3.同志とともに、現実社会の課題に立ち向かって、幸と平和の連帯を広げゆく挑戦。
まずは、朝晩の勤行・唱題のたゆみない継続は不可欠です。
そのためにも、規則正しい生活リズムを心掛けていきたい。
私の場合は、嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、楽しいことがあっても、苦しいことがあっても、調子が良ければよいで、悪ければわるいで、生活のリズムを崩しがちです。
こうして、改めて見てみると、これでは、生活のリズムは狂いっぱなしです(笑い)。
生活のリズムは、健康にも影響を与えるし、仕事など日々の暮らしにも影響は出ます。
広宣流布のためにも、健康でありたいし。
生活のリズムを良くするにも、結局は、朝晩の勤行・唱題なのでしょう。
辛くても嫌でも、朝に勝つことから始めたいと思います。
こうして、考え始めると、結局のところ、年齢も40代後半と、いい年しながらも、子どもと同じように小さな小さな事からチャレンジを始めなければならないことに、かなり恥ずかしさをおぼえます(笑い)。
しかし、先生は、私のような人もいないとも限らないということを、ちゃんと御見通しされていらっしゃるんですね。次のようにありました。
『どんな小さなことでもよい。具体的に明確に祈りながら、新しい何かにチャレンジしていくことだ』
池田先生は、本当に、有り難い師匠です。
また、池田先生の師匠である、戸田先生の、
『信心こそ惰性(だせい)を打ち破って、自分も家庭も地域も、1つ1つより良く変えていくための挑戦である』
との、御指導に池田先生は、補足的に御指導も添えて、私のようなものにも、前へ進みやすいように進みやすいようにと、心を砕いてくださっているのです。
物理的には、私と先生との距離は、全然離れていますし、当然ながら、いまだ、一度もお会いしたこともありません。しかし、このように文字にして、私たち一人ひとりの会員さんを大切にして教化し、手を引いてくださるのです。
ともあれ、朝晩の勤行・唱題で、妙法のリズム・宇宙のリズムと合致していくし、生命力も蘇生する。すべてが良い軌道に乗っていくのです。
だから挑戦しなさいという事だと思います。
御書を研鑽し、学んだことを現実の生活の場で、つまり、人生のいかなる試練、苦悩に対して実践し、決してあきらめないで、粘り強く乗り越えていく、苦難に負けない生き方をしてこそ、事実の上で「学んだ」ことになるだろうし、御書を身で読むという「身読」とは、そういうことだろうと思う。
自分ひとりの幸福・平和というものは本来あり得ない。自分さえよければ良い、というのは、本当の幸福・平和ではない。自他共の幸福、世界の平和を願い、あらゆる障魔、悪と戦って勝ち取ってこそ、真の幸福、平和と言えるのです。
しかし、なにごともひとりでは成し得れない。簡単なことではない。簡単なことなら挑戦とは言わない。
善知識である同志とともに、現実社会に立ち向かって、幸と平和の連帯を広げゆかねばならない。
師の心を我が心と定め。
また、大関西の草創の母の叫びのように、
『寝ても覚めても、みんな幸せになって欲しゅうて、人材が欲しゅうて、一心に歩き回りました』
どこの地域にも、このような信心強盛な先輩がいらっしゃると思います。
もし、見つからなければ、自分がファーストペンギンとなって、地涌の挑戦のリズムを打ち鳴らしていくのもいいかも♪、と思います。
有り難いことに、私の地区にもおります。
婦人部の「T」さんと「S]さんです。
まだまだおりますが、私の記憶に強烈に存在する方が、この御二方なのです。
現在は、この御二方が、何をするにもコンビで、その活動報告にパンチが利いていて愉快なので、とても強烈に感じています。
いろいろな人に声をかけては、健康の話や、身近なことで困ったことはないかとか、公明党議員さんの話をちょこちょこ織り交ぜて、たまに信心の話を挟んだり、頭の中には、対話をするためのいろいろな引き出しがあるようです。
協議会や座談会で、「S」さんが、活動の様子をひとりで喋りまくり、話を膨らませていきます。まるで、自分ひとりで活動してきたかの如くに(笑い)。
マックスに達すると、「T」さんが突っ込んで、「そこは、私がやったんやがね~♪」、と、タイミング良くネタ晴らしをして、「S」さんが「あれ、ほうやった~?(笑い)」と、軽快におとぼけでかわして見せる。
一同で爆笑するパターンですが、とても楽しいし、なんとなく自分にもできそうな気がしてきて、やる気が出ます。
これは、事前に打ち合わせをして聞かせてくれているのではなくて、「つうかあの仲」のおふたりならではの「阿吽の呼吸」といいますか、即興です。なので、場合によっては、ぐちゃぐちゃの時もあります。それはそれで、また違った面白さがあります(笑い)。
日々、題目をあげ、活動に励む人は、力強く、そして、元気だと思います。生命力が漲っているからだと思います。
そして、その人がいるだけで、安心感があります。
それから余談ですが、わが支部では、昨年末から、新たに、「10時間自由唱題会」が行われるようになり、今年も、1月から開催しました。
私は、「今年、ひとりの折伏」と「わが地区の眠れる同志の目覚め、活動家の増」等々を御祈念し、昨年末とも無事に10時間を完遂させていただき、今月2月も、「10時間自由唱題会」が開催されるとのことですので、同志の皆さんと地涌の使命を胸に、ただ一丸となって、新たな「挑戦の友」を増やしていきたいと思います。
『大白蓮華』2月号「池田先生の講義 世界を照らす太陽の仏法」35ページから、『「負けないという人生」に生きる』の中で、
『学会に障魔の嵐が吹き荒れていた1978年(昭和53年)11月、私は未来を担う鳳雛(ほうすう)たちに、こう呼びかけました。
「負けないという人生は、永久に勝ちです。勝つことよりも負けないことのほうが、実は偉大な勝利なのです」
負けないとは、挑戦する勇気です。仮に何度倒れようと、何度でも立ち上がり、一歩でも、いや、半歩でも前に進んでいくのです。
大聖人は、「此(この)法門を日蓮申す故に忠言耳に逆らう道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然れどもいまだこりず候」(1056㌻)と仰せです。
いかなる大難が競い起ころうとも、「いまだこりず候」です。この不屈の精神、即「負けじ魂」こそ、日蓮仏法の骨髄(こつずい)なのです
(中略)
真の忍耐を知る人は、未来を創る智慧と力をもっています。地涌の菩薩は「大忍辱力(だいにんにくりき)」(法華経459㌻)を持つ希望の勇者です。大いなる目的のために、じっと耐え忍ぶ力を持つ、悪世乱世の弘通の闘士です。
勝利は地涌の底力の証です。
したがって地涌の誓願に生き抜く創価の師弟は、何ものにも負けない。敗れることはありません。私たちは、久遠の使命を持って、勝つために生まれてきたのです。ゆえに、勝利の実証は絶対に間違いないのです。
(中略)
戦後の不況下で、戸田先生の事業が苦境の渦中に、私は日記に綴りました。
「社会には、勝つ人もいる。敗れる人もいる。運、不運は計りしれない。而(しか)れども、勝っても永久にその歓びは続くものではない。一時負けても、自覚の有る人は、勝者以上に、より高く、広く、深く、将来の、偉大さを、築きゆけるものだ。永久に、敗れざる限り、次への一歩一歩の、勝利を確信して生きぬくことだ」(1950年〈昭和25年〉10月4日)
今も、この信念は変わりません。
「自覚の有る人」とは、師弟の誓い、弟子としての使命を自覚した人のことです。それは、自身の生きる目的と、広宣流布の使命が一致した人のことです。
(中略)
「負けじ魂」とは、師弟の誓願と一体です。
「負けじ魂」とは、仏界の生命の異名です。
「負けじ魂」とは、人間勝利の原動力です。』
と、ありました。
私は、心に熱を帯びました。
増えるまでやめないぞ! と。
とにかく、人一倍自分にやさしく、甘い私ですが、自分を追い込んで、もう一軒、もう一軒と、「いまだこりず候」と、「負けじ魂」の人、「挑戦王」になれるように頑張っていきたいと思います。