『池田大作

 

  私は座談会で、師匠とお会いすることができた。

  私は座談会で、大仏法を学び、実践してきた。

  私は座談会で、愛する同志と一緒に、日本そして世界へ、広宣流布の拡大を起こしてきた。

  私は座談会が、何よりも大好きだ。

  法華経の薬王品(やくおうほん)には、「如清涼池(にょしょうりょうち)」と説かれる。

  すなわち、清らかで涼やかな池は、渇きに苦しむ人々の心身も満たすことができる。その池の如くに、妙法には、生老病死の苦悩から一切衆生を解き放つ大功力が漲(みなぎ)っているという譬喩(ひゆ)である。

  “心の砂漠”が広がる社会にあって、座談会は、集い来る友が、皆、生命を満たし、蘇生していくことのできる「如清涼池(にょしょうりょうち)」のオアシスといってよい。

 

 

絢爛たる菊花の橋。私たちも幸の語らいで、友と心を結ぼう(池田先生撮影)

 

 

  御本仏日蓮大聖人は、明快に宣言なされた。

  「仏になるみちは善知識にはすぎず」「善知識たいせちなり」、そしてまた「而(しか)るに善知識に値(あ)う事が第一のかたき事なり」(1468㌻)と。

  「一生成仏」のために、最も大切であり、しかも最も値(あ)い難き存在が「善知識」だ。この善知識たる友と友の集まりこそが、創価の座談会なのである。

  悪縁の渦巻く泥沼のような現実生活の中で、常に励まし合い、互いに幸の人華(にんげ)を咲かせていけるのだ。何と尊い常楽我浄(じょうらくがじょう)の会座であろうか。

  仏法の本義に則り、座談会という前代未聞の民衆の対話運動を創始(そうし)してくださった牧口常三郎先生と戸田城聖先生に、感謝しても感謝しきれない。

 

 

  この星に

    幸と平和の

      オアシスを

     語り広げむ

         地涌の我らは

 

 

  戸田先生が一回一回の座談会に、真剣勝負で臨まれていたお姿が思い起こされる。司会や式次第、話の内容も、事前に綿密に打ち合わせをされた。その上で「形式にとらわれる必要はない。始めて来た友も『本当に楽しい!』『よく、わかった!』と喜べる闊達な雰囲気をつくっていこう」と言われた。

  一人一人が汗と涙でつかんだ体験は、何ものにも変え難い「人間革命」の感動のドラマではないか!

  どんなに悩みを抱え、どんなに疲れ果てていても、必ず元気になれる。前向きになれる。勇気が湧いてくる。これこそが、座談会という幸福劇場なのだ。

 

 

創価の集いは、なんでも語り合える“開かれた対話”の広場。

明るく、賑やかな語らいに、信心の歓喜が広がる(1981年5月19日、ドイツ・フランクフルト郊外)

 

 

  今や世界中で、「ザダンカイ」が朗らかに行われている。あらゆる差異を超え、地球民族の心に生命尊厳の哲理の火を灯し、人生や国土のいかなる試練にも負けない活力と連帯を生み出しているのだ。

  人類が待望してやまない新たな「対話の文明」を創造しゆく無限のエネルギーが、座談会にはある。

  「御義口伝」に曰く「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るものは一同に皆共至宝処(かいぐしほうしょ)なり、共(ぐ)の一字は日蓮と共(ぐ)する時は宝処(ほうしょ)に至(いた)る可(べ)し」(734㌻)と。

  座談会に連なる人は同志も友人も分け隔てなく、大聖人とご一緒である。どこまでも、大聖人と共に、最極の幸福と平和の「宝処」へ、皆で明るく賑やかに大行進していこうではないか!』

(『大白蓮華』  2017-11  聖教新聞社)より

 

 

  池田先生の、「座談会」をなによりも大切にされているという熱烈な思いが、びんびんと伝わってきました。

  『私は座談会が、何よりも大好きだ』、思わず、「私もです!」と口に出てしまいました。

  思えば、過去より、先生は折に触れては座談会に言及されてきました。

  そしてその心は、初代会長から変わることなく受け継がれてきた精神でもあったのです。

  ちょうど、手元に『法華経の智慧  上』がありますので(更賜寿命 ②の時から上・中・下巻が出しっぱなし)、受記品(第六章)から、初代会長から三代会長に受け継がれた「座談会」に対する思いを掲載します。

 

 

  『斉藤  学会の活動の基本は座談会です。この「法華経の智慧」の座談会も、全国・全世界で行われている座談会で、また語らいで、大いに活用していただけるよう頑張っていきたいと思います。
  池田  そうだね。さらに力を入れていこう。
  座談会は“大河”です。あらゆる活動は、その大河に注ぎこむ“支流”です。
  友好活動も各種会合も、すべて座談会という“大河”に合流して、“民衆の世紀の大海”へと進む。その大河の両岸には、広大な「人間文化の沃野(よくや)」が開け、豊かな実りを結んでいく――。
  座談会にこそ学会の「心」がある。戸田先生は、よく語られた。
  「初代の会長は、自分が真っ先に行って、1人が来ると、その1人の人とじっくり話しあう。2人目の人が来ると2人と、3人来ると3人と話しあって、実に懇切丁寧に教えてくださった」と。

  遠藤  真っ先に座談会場へ――牧口先生は、座談会に全力を注がれたのですね。
  池田  そうです。戸田先生は、こうも言われている。
  「ただ1人でもいい。その1人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、人生のことを心から話しあっていけばよいのだ。2人でもいい、御本尊の話をして、感激しあって帰る座談会にしてほしい。3人も来れば、“大勢”というべきである」
  須田  “たくさん集める”ことも大事ですが、来た人が「もう一度、来たい」「今度は、友だちと一緒に来たい」と、満足できる座談会をつくり上げていくことですね。
  池田  「号令」ではない、「心」です。「人と人」の語らいなのだから、「人」を大事にしなければ。その結果として、にぎやかで盛大な座談会が定着していくのです。
  「伝統の座談会」と呼ぶのも、“長年、続いている”からではない。座談会を根本に、一人一人を大事にしてきた、その「心」が、学会の伝統なのです。
  学会はつねに、無名にして健気なる「民衆」を、励まし抜いてきたのです。そこに座談会の“魂″がある。世間から見れば、人数も少ない、だれに注目されるのでもない――これほど地味な集いもないでしょう。
  しかし座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった「哲学」がある。どんな人をもつつみゆかんとする「潤い」がある。どんなに宿命に打ちひしがれていても、“もう一度、頑張ってみよう”と奮い立たせずにはおかない「希望」がある。

  遠藤  “湯上がりの爽快さ”という感じでしょうか。
  池田  そうなればすばらしいね。仕事をやり遂げ、汗をふきふき、青年が駆けつける。「今日は間に合った」。着いたとたん、安心してドッと眠気が襲うけど、そうはいかない。(笑い)
  「元気出しなさいよ。若いんだから」と、いつも優しく、声の大きい地区担さん(=現・地区婦人部長)。本当は“若いから”眠いのだけれど。(爆笑)
  いぶし銀のような味わいある言葉で、信心の醍醐味を語ってくれる多宝会(たほうかい)の方々。未来っ子たちは、少しぐらい騒いでも、かわいい。(笑い)
  「家内(かない)が、あんまり言うもんで」と久しぶりに登場した壮年部のお父さん。「そろそろ本気を出さんとね」と照れながら決意発表すると、大拍手のなか、奥さんが目を真っ赤にして笑ってる。
  笑いあり、涙あり、感動あり。決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる“庶民のオアシス”、それが学会の座談会です。
  この小さな集いに「人間共和の縮図」がある。「民主主義の実像」がある。「信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動」がある。尊い仏子を、大切な友を、幸せにせずにおくものかという「心」がある。その心が「法華経の心」なのです。

  遠藤  池田先生の世界広布の行動も、アメリカでの「ザダンカイ」から始まりました。小説『新・人間革命』(第1巻)に書いてくださっています。

  須田  私も『新・人間革命』を読んで、こう思いました。釈尊が、かつての修行仲間に初めて仏法を説いた場面(初転法輪しょてんぽうりん)も「座談会」ではなかっただろうか、と。

  参加者は、釈尊のほかに5人。この小さな小さな集いが、仏教史に燦(さん)たる“旭日”となった。しかも、そこへ赴(おもむ)くために釈尊は、200数十キロもの道のりを歩いたとされています。

  池田  仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じる、と言ってよいでしょう。

  そして釈尊の結論である法華経も、壮大な「座談会」です。

  人生を模索し、真摯に問いかける求道の日々。体験を通し、譬喩を駆使して、誠実に答えていく釈尊。そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」につつまれる人々。その決意の発光、連動、感応の妙――』

(普及版『法華経の智慧』  上  池田大作 聖教新聞社)より

 

  と。

  先月、選挙により中止となったブロック座談会の打ち合わせで、私が「とくに男女青年部の方に、なんとしてでも、ひとりでも多く参加していただけるようにと思います」と意気込むと、私よりも、うんと先輩の白百合長さんは、「数ぢゃないよ。たったひとりでも、そのひとりを大切に、大事に育てていくこと。ひとりでも参加できたら大成功なんだよ」と、悟して下さいました。

  私は、その熱のこもった真心から発せられた言葉に、とても感動いたしました。

  ふだんから、私が気づかないだけで、見えていないだけで、私自身も、こうした創価の父母から見守られ、そして支えられ、育んでいただいて今日(こんにち)があるんだな、と心が震えました。

  丁度、今夜は座談会でした。

  昨年末に、お母さんが脳梗塞で倒れて以来、ひとりでお母さんを介護しながらの生活になった先輩が、今月も笑顔で参加されていました。

  先日の選挙の投票日、あの大型台風上陸直前の雨の中、彼は、お母さんに「どうする?」とたずねると「投票に行きたい」と言われたそうで、お母さんの仲良しの婦人部さんの車に乗せてもらって投票をされてきました。

  お母さんは、自分ではほとんど動けないので、彼が抱きかかえて、ベットから車いすに載せたり、雨の中を車いすから自動車に載せたり、また雨の中を、自動車から、お母さんを抱きかかえて車いすに載せたりと、本当に大変でしたけど、自分たちで行けたことを心から喜ばれていました。

  皆、その話に、目を潤ませながら、聞き入っていました。

  彼は、それ以前、自身の病から、座談会も同時中継も参加できないほどでしたけど、今では「自分がしっかりしないと!」という思いから、心の中にお母さんを連れて、一緒に参加されています。

  私は、思います。生活は、確かに大変になってしまったかもしれないけど、お母さんは、幸福者だなって。いや、彼もまた、幸福者だなって。

  息子が立ち直って、また、一人立って、信心を根本に介護から生活全般を、自ら率先してこなしている。親孝行している。

  動けなかった息子が――。

  地区の父母にとっても、どんなに嬉しいことか。

  彼は、「自分でできることは自分でやりたい。今のところはまだ、何も心配はいらないけど、困るようになったら、自分からお願いしますので」と。

  皆、うんうんと頷きながら、温かいまなざしをおくっていた。

  このように、皆で心ひとつに団結し、学び、実践して、体験を語り、苦楽や感動を共有できる創価家族の座談会が、私も大好きです。

  これからもまた、皆で仲良く、そして力を合わせて、より良い地区に、より良い座談会にと、心の底からやる気が、赤々と太陽の如く燃えに燃えています。

 

 

  それから、北海道で開催のはずが選挙で中止になり、来日予定だったはずの海外のSGIメンバーの話も伺いました。

  どんな思いでいたことかと。

  来月は、わが中部です。無事に開催できること、そして皆さまの無事故の参加をご祈念して参ります。