おいちゃんの木彫りっこギャラリー 「母子曼荼羅」

おいちゃんの木彫りっこギャラリー 「母子曼荼羅」

宇賀地洋子の木彫・木版画と 他作品紹介と 時に羽生結弦選手応援記事など。訪問ありがとうございます❣

Amebaでブログを始めよう!
2021年12月に個展案內をしたっきりでした、、
重複・・もあるけれど どんな中身だったか書いてみることに、、



第73回個展のメインは
母に見てもらいたかった かんぴょうの版画2枚・・・
しつこいけれど、、、これを抜きにしては書けなくて、、、
「早朝のかんぴょう干し」と
「かんぴょうの花合わせ」

○(かんぴょうは下野市(栃木県)の特産品です)

木版画「早朝のかんぴょう干し」2021年(88×58㌢)

木版画「かんぴょうの花合わせ」2021年(88×58㌢)


子供の頃 夏といえば「かんぴょう干し」 
農家の庭はかんぴょうで埋まり
陽が射して風が吹くと 一面真っ白な海になる

夜が明け切らぬ暗い内から父と母はかんぴょうをむいて
ばあちゃんらが一本一本 竹竿に干してゆく 
子供らは 明るくなってから「しっこき干し」や「口取り」を手伝い

剥いたばかりのかんぴょうはひんやりと気持ち良くて 
真っ白いかんぴょうの海に入ると 心まで清々する氣がした
 
昼は「裾分け」
干した先っぽがくっついてしまうから 
手拭いで頬かむりしたばあちゃんが 手刀で一本一本分けてゆく

夕方は「花合わせと」収穫と運搬
夜は夜で乾いたかんぴょうを束ねる作業が遅くまで続くから
午後のいっとき 暑い盛りの午睡は必須だった
 
あちこちの涼しい場所で大人達が休むと 世界が一斉に静かになり 
蝉だけが元気だった

昼寝しなかった子供がみていた不思議な静寂の世界・・
 
家族総出の大変な仕事だったけれど 全体が嬉しくて 
その光景は アブラゼミの鳴き声と共に忘れられない。
 

「かんぴょうの花合わせ」・・
かんぴょうの花は夕方にならないと咲かないから まさに「夕顔」、、

子供の掌より少し大きくて 真っ白だから 夕暮れの中でも目立って 雌雄の区別もついて「花合わせ」が出来る

かんぴょう畑では 葉っぱや赤ちゃんの実を踏まないよう そろりこっそりと足を運ぶ

敷き詰められた藁の上は裸足が一番気持ちいい 
一面広がるかんぴょうの中 ひとつひとつ花粉を雌しべにつけてゆく

父と母は しょいかごに何個も放り入れて 更に両の手に持って 
父の手はグローブのように大きかったから 片手に2個もぶら下げていたり、、

父も母も、、そうそう、、ばあちゃんも 
俵をヒョイと持てるほど 
力持ち家族、、、。


ず〜っとかんぴょうの版画を彫るぞ~と思って やっと出来た時には遅かった
2枚とも構図は母がメインで1番に見てもらいたかった・・・


コロナ騒動と母の旅立ち以来、、、
ホントは書きたいのにずっと書けないでいたけれど
久しぶりに書けて良かった、、
大分 間が空いてしまったが
展示風景を振り返ることが出来た。






「大日如来」(2015年)&「かんのんさま」(2013年)(A家観音堂所蔵)
小・中学校の同級生から依頼されて彫った仏像2体
A家の敷地には観音堂があって 
そこに納めたものをお借りした。
同級生夫妻がロビー展に運んでくれた!!
(Aさんありがとうm(_ _)m)



コレは会場で写したものではないけれど 個展時での最新作
「きょうだい」(2021年・クス・高さ37㌢)
ちょっと見ぬ間に成長してゆく孫たち、、
ケンカしながら仲良し、、
自分の子育て時代はどうだったかな〜〜


新作だけで会場を埋めるのは叶わない 
ので 家に在るものを展示
「母さんが飛ぶかもしれない」(2001年)


「ただいま お帰り」(1997年)


「授かりし」(2013年)



「ハグ ー その2」(2006年・スギ)
杉材は木目がハッキリしているので 
普通 彫刻には向いてないと思っていたけれど この木彫に関しては逆に良かったかなと思える



「雛飾り」(2022年)



「みか」(1981年・ブロンズ)
私が留学出来たのはパリ在住の彼女のお陰!!
初対面で 彼女の気高い雰囲気に打たれて いつか彼女を作りたいと思っていた
3年間の留学の間一度も褒められることなく帰ろうとしていた時 個人的に彼女にモデルになってもらって放課後制作していたら
「やっとヨーコが出来たね」と、初めて教授に言われた 
それまで 何を作っても「ヨーコはヨーコを作りなさい」とずっと言われ続けていたから、(コレがソレなのか、、、!!)と
腑に落ちた瞬間だった。



受付から、、


受付の左端の版画は 母が結城紬を織っているところ
「母の機織り(結城紬)」(1970年頃?)
高3の時 受験したいと言ったら家長の祖母に
「そんな金が何処にある?!」と反対され

「ならば私が働いて出してみせます」と言って親戚の家に機織りを習いに行った母

機に座るのは皆が寝たあと、、
鶏がときを告げる頃まで織ったりしたという



上の3種類の栞は 下野市市役所の方達が作ってくださった!!(ありがとうございました!!)
来場者の皆さんに喜んで貰うことが出来た
○左端は 
板画
「母子曼荼羅 & ひらがな母子」(2021年)
板を焼いて描いたもの


○真ん中は冒頭の「かんぴょうの花合わせ」で

○右端は
木彫「なかよし (その2)」(2021年 カツラ 高さ15㌢)



他の木彫小品は省略して 
版画をぐるっと一巡り・・・




































横長版画は 「泣いて笑ってまかせ」(2001年)


「さくらんまん」(2010年)













宇賀地洋子個展は 下野市市役所ロビー展で
第73回目を迎えた。

個展を始めるきっかけは 
上の写真左下の「手づくりママ」(1988年冬号)!!

当時主人の会社が駄目になって就活をしていたら 手づくりママの編集長さんが
「面白かったから さっきの話を版画と文章にしてらっしゃい」と言って載せてくれた「宇賀地洋子のおっぱい話」・・・
それを見て声をかけてくださった画廊「莊」さん。
ひょんな事が ひょんな事に 繋がって 
今の私、、、

「ピンチはチャンス」って言うけれど 
ホントにそう、、、

人生旅って オモシロイですね❣


展示した作品 出来るだけ載せて 長くなったけれど、最後まで読んでくださって ありがとうございますm(_ _)m
感謝にて❣❣







濱崎茂木彫作品の殆どを Oさんは収集している。 

30数年前 パトカーで市内を巡回中 共同アトリエの駐車場で大人4~5人が手作り木製コースでミニ四駆を走らせ 嬉々として遊んでる姿を見かけて 声をかけたのが出会いだったという。

 

2014年に彼が亡くなって 初めて 私はOさんが収集してきた浜ちゃんの作品たちに会いに行った。 

大学時代は担当教授も教室も違って 殆ど話したこともなかったのに そこで出会った濱ちゃんの木彫は ただただ 衝撃だった。

その時の感動は 言葉にならないまま時を経て、先日2度目の訪問をして あらためて 何とかして 伝えたいと思った。

幸い新しくなった携帯で写真も撮らせて貰った。

 

敢えてその時の気持ちを言葉にすると 敬虔 という文字が一番近いのかもしれない・・・

人物は勿論 子どもたちを彫っていても 犬や猫を彫っていても ホオヅキやザクロや蓮の実を彫っていても  私には祈りに見えて 萎んで朽ちてる野菜でさえ 私の目の前には 祈りの対象として存在した・・・。

 

 

Oさんの書斎にあった木彫から撮らせて貰った。

 

実物は もっと薄い水色と黄色で 何とも清々しく優しい色、、、
 
 
「岸辺譚・八月」
 
 
 
「ダライ・ラマの少年像」
 
 

壁一面の書棚の前には あの 酒井雄哉大阿闍梨の像が、

・・・千日回峰行を2度満行した行者さんが笑っている。

 
 
 
まるで そこに居て 笑ってるかのよう、、、
 
 
書斎から2階ヘ上がると
そこには 濱崎茂が詰まっている!!
 
ホオヅキ と フウセンカ
色が カボチャもホオヅキも 実物はもっと黄色みがあって軽い、、
 
 
 
「岸辺譚・トオセンカボチャ」 「岸辺譚・はちす」 「リンゴ」 「傍目カボチャ」
写真だと色が重くなってしまった
 
 
「?」
 
 
「岸辺譚・うずくまる猫」
 
 
「岸辺譚・厚子のザクロ」
 
 
奥から 「高橋竹山」「?」 「観音」 「岸辺譚・雲」
 
 
奥真ん中から 「岸辺譚・タクミとナズナ」 「岸辺譚」 「岸辺譚」
 
 
左奥から「幼児の首」 「?」 「?」
 
 
 
 
 
 
 
 
Oさんは言う、、この猫は濱ちゃんの自画像なのだろうと、、
 
 
芸大院生時代の濱崎さんを、舟越保武先生が描いたデッサン。
舟越先生の本「ナザレの少年」の中の ヨゼフ像と酷似しているという、
舟越先生は濱崎茂の中にヨゼフを見たのだろうと、Oさんは言う。
 
 
彼の木彫のタイトルは不思議だ。
多くの作品名が 同名の「岸辺譚」となっている。
そのことを知った時
私の脳裏には 咄嗟に 「三途の川」の岸辺で 彫刻を彫っている濱ちゃんの姿が浮かんでしまった、、、
 
岸辺とは、あの川のほとりなのか、、、 
 
生きながら 彼の仕事場は
「三途の川のほとり」だったのか・・・!!
だとしたら
岸辺で生まれた作品たちは みんな 確かに「岸辺譚」に違いない。
 
私の勝手な妄想だが あちらとこちらの狭間で、渡り切る寸前まで彫っていた濱ちゃんの姿・・・
入院するも 5日後に亡くなったという。
 
 
最初に伺った時 濱ちゃんが Oさんに遺したスケッチブックというのも 見せて貰った。
その中に 「ジェルソミーナ」を発見した時の感動と驚きは今も色褪せてはいない。
 
そうか〜 生涯独身だった濱ちゃんの女性像については ジェルソミーナか・・・!!
勝手に納得して 勝手に腑に落ちて 勝手に嬉しかった。
 
 私がかつて見た映画の中で 1番忘れられない映画が フェデリコ・フェリーニの「道」
で、 今でもジュリエッタ・マシーナ演じるジェルソミーナの顔を忘れることは無い。
 
昨日食べたものを忘れても、何十年も前に見た彼女の顔は何故か色褪せない・・・
アンソニー・クイン演じる旅芸人ザンパノ、、、 「ザンパノが来たぞ ザンパノが来たぞ」と繰り返し太鼓を叩くジェルソミーナを真似することだって出来る・・・
 
そのジェルソミーナが 浜ちゃんが最後に遺したスケッチブックに存在したことも 岸辺譚同様 衝撃だった、、、。
 
 
生前 親交など無かったのに こうしてブログ記事を書いている自分、、、
人の縁の不思議・・・
 
もっと写真をアップしたかったけれど 15枚までが限度とのこと、、、
 
Oさんが出した「濱崎茂遺作品集」を預かって 私の個展やグループ展の時には販売もしています。 
もし機会があったら 是非手にとって見てもらいたい!!!。
 
読んで下さって、ありがとうございます m(_ _)m ❣❣
 
 
 
 
 
 
 
 
 

母が旅立った。

来年早々の個展開催を目前に・・ 

本当は 真っ先に母に観て欲しかったのに・・


コロナ前に ふる里の「下野市役所市民ロビー」での開催が決まった時 

「かんぴょう」をテーマに父母の働く姿を彫ろうと思った。


夏と言えば大人も子供も「かんぴょう」〜〜

夏休みは毎日「かんぴょう剥き」


「早朝のかんぴょう剥き」

朝早くまだ薄暗いうちに起きてかんぴょうを剥(む)く

家族総出で自分に出来る事をする

かんぴょうを剥くと長いのばかりではない 剥く人の腕にもよるけれど 短いのも沢山出来てくるから、その短い「しっこき」を 低い竿に干したり、 父がかんぴょうを剥く横で「口取り」をしたり、、、


平均してどの位 剥いたのだろう・・

1日に200個位は剥いたのではなかろうか、、


子供が口取りしたのを 母が纏めて竿にあげて、長さを切り揃えて 庭いっぱいの棚へ運ぶ


棚に竿をかけて 祖母や手の届く者が 一本一本干して行く

全部干し終わる頃にはもう太陽は真上・・

でも干して終わりではない


朝早いからお昼を食べたら昼寝して その後には「裾分け」が待っている。


手ぬぐいを ほっかむり(頬かむり)してかんぴょうの林に分け入る

かんぴょうの剥きたてはヌルヌルしているから間隔を開けて干しても 裾どうしがくっついてしまう、、、

なので、人の手で くっついた裾の先を 手刀で一つ一つ分けて行く

そのかんぴょうの林の中に入ると ヒヤッとした清涼感に包まれて 何十年経っても体は覚えている

小さい子なら  その下を駆け抜けたくなるだろう・・

午後は干されて乾いたかんぴょうを束ねていると 毎日のように「かんぴょう買いの○○さん」と呼んでた人がやって来る

仲買人さんというのかな、、各家を回って買って行った。

夕方になると かんぴょうの「花合わせ」が待っている。


「かんぴょうの花合わせ」(チョットこのかんぴょう、、四角くなっちゃった〜、、、、)

かんぴょうは「ユウガオ」の実を剥いて干したもの・・

ユウガオの花は夕方にならないと咲かないから 咲くのを待って 雄しべの花粉を雌しべの先にチョンチョンとつけてあげる 

それが「花合わせ」の作業


もっぱら子供の仕事で、父母は明日剥くかんぴょうを切り出して運ぶ。

一個一個がとても重い 

ひょうたんのような長いものもあるが 私は実際に見た事はなくて 下野市のかんぴょうは丸くて大きい!!

直径30センチにもなれば 20キロくらいあるんじゃなかろうか・・という重さだ

それを背負いかごに入れたり 手に持ったり、なるべく一遍に運ぼうとして、父はグローブのような手で2個も掴んだりしていた


(母はお見合いの時 父の手しか見てなくて、グローブのような手の人だなと思ったのだそうだ)

夕方薄暗くなったかんぴょう畑で、新しい実やツルの先を 踏まないように 踏まないように ソロリ ソロリと 脚を運びながら花合わせをする


薄闇に白くボンヤリ浮かび上がっているユウガオの花の中で どれが雄花でどれが雌花か見分けるのだけど、見分けがついた・・

雄花をちぎって雄しべの花粉を雌花の先にチョンチョンとつける

勿論 ミツバチさんたちもその役割を担ってくれていたと思う


耕運機の後ろのリヤカーをいっぱいにしても 一遍には運べないから往復して運んで 

夕飯食べてからも 父母は乾燥したかんぴょうの束ねをしていた


そして朝は早い

それに当時は夕立ちが毎日のようにあったから

天日干しだった当時は、その都度濡れないように作業場の軒下に運ぶから

天気にも左右されて

それこそ夏場はかんぴょうに追われる かんぴょうの季節だった

当時 いつも喜んで手伝ったわけではないけれど 夏の記憶は かんぴょう〜・・・


それと夕立ち

夕立ちのことは「らいさま」と言っていた

雷様でライサマ・・

雷様は 稲の妻と書いて稲妻・・

何故稲の妻なのか・・・

昔は稲の夫(つま)と書いたらしいが 雷が多いと米の実りが良く豊作なのだそうだ


「らい様が来るぞ〜」と言われると雨戸を閉めて

その雨戸の節穴から外を見ていた

暴れる木々 

叩きつける雨 

「アッ 今のはどっかに落っこちたかもしんない、、、」と思うような落雷の音

(実際 神社の木に落ちたり

同級生の家に落ちて燃えたりした) 


その落雷の音の数秒前に走る閃光

その閃光に浮かび上がる 庭や蔵や雨屋(あまや)や隣家の欅、、は見つめるにあたいした

怖がりながらも 見つめていた


かんぴょうの話を書き出したら 長くなってしまった、、、


「かんぴょう剥き」や「かんぴょうの花合わせ」を彫ったら、母に見て貰おうと思っていたのに 間に合わなかった・・


先日 49日で親戚が故郷に集まった時

母の遺影を見ては 皆が口々にいい笑顔だ〜〜と言う

享年93歳だったが遺影の写真はいつのだったかわからないが

ホントにいい笑顔〜・・


下野市役所市民ロビーでの個展案内と一緒に 載せておこうと思う・・

 良かったら見て下さい。


個展案内



⬆下野市役所さんで作って頂いたチラシ。


⬇自分用ハガキサイズ





そして 母の遺影 


こういう所に載せてよいものかどうか分からないけれど・・・ 
今の私があるのは 母のお陰❣ 母ありきなものだから・・・
このことについては 又書き出すと長くなるので 又の機会に・・・

以上 2年ぶり位で書いたブログでした。
間が空いたのにも理由があってこれも又長くなるので後日に・・・

長々読んで下さりありがとうございます❣❣
本当に心から感謝です❣❣
ありがとう〜❣❣











明るい未来を無意識に 当たり前のように思って 聞いたのだろうと思う

 
「〇〇が大きくなったら どんな世の中になってるんだろね〜」
 
 
「ママ あのね バカな世の中なんだよ」
 
 
今 振り返ると 俗に言うお花畑意識で生きていた私は 
幼い長男の口から出た「バカな世の中」・・・を 忘れはしなかったけれど 
 
その中身がどんなものかなんて 当時は想像もしなかったし、幼子にはあまりに似合わない言葉に 聞き返すことすらしなかった
 
 
数十年が経って
今年になって 
怒涛の如く未知の情報がなだれ込んで来て 
初めて世界の真実を知ることになって、、、
 
彼の言った バカな世の中の意味が分かった、、、
当時彼はその具体的な事は知らずに、 バカな世の中と言ったのだろうと思う、
聞こえたまんま言ったのだろうが
知った衝撃が強すぎて 
知らぬが仏でいたかった・・・なんて思う位だから
情けないけれど
受け止めきれないほどの裏世界・・
特にショックだったのは子供達に関する世界だった
 
私は、今迄 何十年も ライフワークのように母子曼荼羅世界を 平面や立体に彫ってきた・・
 
もし、もしも、
何千年も昔から子供達を犠牲にしてきた 
人身売買や 小児性愛や アドレノクロムに関する虐待などなど 諸々を 早くに知っていたら、、
 
私は、母子像を彫る事が出来ていただろうか・・?
 
人間は本来善で 世界は未来に向かって少しづつでも良くなっていくものだと思い込んでいたし 
お花畑で生きてる というフレーズを意識するようになって 
今振り返ると そう、、、
 
ある意味お花畑で生きて来たから 何の後ろめたさも無く母子世界を彫ることが出来ていたのだろうと思う、、 
 
それはそれで幸せな事だったと思う
 
が、もう知ってしまったし、、
 
 
知らぬが仏でいたかった、、
と言ったら 
知らなきゃいけないんだよ 
と言ったベスさんのその口調は静かだったけれど 心に落ちるものだった
 
そうなんだよね、、
人類はこの事実を知らなきゃいけない。。
 
知らずして、変われないし地球は次には進めないんだと思う、、
 
この何とも形容し難い 
後ろめたさ・・の感覚を抱えて
どう進んだら良いのだろうと思う 
 
どう表してよいかわからない後ろめたさだけれど、今は抱えたまんま彫っている、、
 
まだ目や細部が途中だけれど、、、
 
 
 
懐中仏 (檜)約13cm
 
 
 
初めは目を伏し目に と思っていたが、、
彫ってる間に 
バカな世の中の事実が雪崩込んできて
世界のあちこちで 救出される子供達のニュースを知る度 手元が曇った
 
伏し目に彫るのを
迷いながらも やめた
 
 
笑顔にしたくなった。
 
 
 
まもなく、秋には 
バカな世の中なんだよと言った長男の処に第二子が生まれる
この像の顔はいつもながら何となく孫達に似てきた。
 
 
 
日本では年間約1万7千人もの行方不明の子供達がいて、世界では何と800万人にも昇るという
どれ程の子供達が 世界の闇の犠牲になって来たことか、、
アドレノクロムに関しては、あまりのおぞましさに拒否反応が出て
 
知らぬが仏だった世界は良かったな〜と思えてしまう
 
でも2020年はそれを許さない
 
目の前に これでもかと バカな世の中を突きつけてくる
 
でも、陰極まれば陽となり 陽極まれば陰となるの如く
バカな世の中だからこそ
未来は明るいと信じたい
 
今は
何も知らなかった後ろめたさを抱えたまんま
彫っていくことしか出来ないなぁ、と 思う
 
後ろめたいという言葉もこれで合ってるのかどうか、、 
他に見つからないので使っているけれど
何に対して後ろめたいのだろう、、
 
無知だったから?
 
確かに 何も知らなかった・・という事を
今頃知ったし、、
 
知っても何も出来ないから?
 
じゃ、知って 何が出来るのだろう?
 
何が出来るのか・・
 
これから考えて行こうと思う
三人寄れば文殊の知恵を出し合って、、、
 
 
今は  
こうして書いて 一人でも多くの人が真実を知るきっかけになればと思う・・
 
あれから30年も経って
長男の言った言葉が 私のきっかけになった事を思うと 余りにも遅すぎやしませんか・・
の世界だけれど
 
もしも10代や20代で アドレノクロムの闇を知ったなら 母子曼荼羅世界など生まれて来なかったろうと思うから それはそれで納得。 
 
 
結局 知る前も知った後もやはり ショックを超えて 母子曼荼羅世界を彫っていくしかないなぁ〜と思う。
他にもテーマは色々あれど 原点はそこだから。。
 
 
最後に
カバールの子供達への所業のおぞましさに
ダメージを受けた人達は 世界中 沢山いるだろうと思うのだが
どんな風にそれを乗り越えたのだろう、、、
 
 
 
 

 

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ある時 長男5歳が 突然言い出した

 

 

「 ママ  あのね かみさまがね  みえない糸でんわで  ビビビビビ~ッて  おはなし してきたよ 」

 

「 ふ~~~ん、、     なんて? 」

 

「 あのね  お家はじゅうぶん    シ ・ ア ・ ワ ・ セ !!     カーテンは もう いいって!!    オ ・ シ ・ ゴ ・ ト !! 」

 

ひとこと ひとこと 区切った言い方が 印象的だった。

 

当時 片付け大好きな私は 襖を外して なんとか 押入れを有効利用しようと カーテンを縫っていた。

 

「 え~~っ!!  じゃ~、 かみさまが  ママに カーテン縫ってないで  オ ・ シ ・ ゴ ・ ト  って 言ってるの?」

 

「うん!!」

 

何度も聞き返してみたが どうも そうらしい・・・

 

せっかく  いい気分で カーテン作ってたのに・・・

 

 

当時は新宿に近い方南町に住んでいた

職人長屋だった。

 

 

友人が初めて訪ねてくると  決まって 

 

「 いったい ここはどこ~?!  何時代~?!」 

と 驚いた。

 

周囲とはまるで違って  

江戸時代さながらの 古い二軒長屋が 

四棟( 8軒分) 建っていた

 

中庭奥には 古いポンプ井戸が健在で

飲んだりはしなかったけれど

 

夏は大きなゴムプールに そのポンプから水を汲んで

ご近所の子供達も 一緒に わいわいがやがや、、、

みんなの遊び場になった、、、

 

都会なのにそこだけ田舎みたいで

今振り返ると 子どもにとっても 

時々個展の私にとっても 

子育てには幸運な場所だったのではないかと思う

 

 

大工さんだった義父と 

義母が結婚以来何十年も住んでいた「職人長屋」

 

 

平屋の古い家は隙間だらけで 

板壁からは 壁土がところどころこぼれて

光が漏れてたりしていたけれど 

4棟の内 2軒借りていたから

1軒はほとんど私の仕事場になった

 

 

右隣は左官屋さんで 

義母は隣のおばあちゃんとは 長~い付き合い

   

左は小さな精密なネジを作っているおじさんちで 

朝 長女がいないなぁ~と思っていたら 

そのお家で納豆ご飯を食べてて

「大したもんじゃないんだから いいのよ~~」と おばさん、、

 

私の妹も一時期同居したり  時々友人の子を預かったり 

何かと賑やかだった

 

まるで はっつあん・くまさんの江戸落語みたいな世界、、、

 

そんな職人長屋だったから 

私が仕事で 大きな音を出しても  お互いさま、、、

 

 

(唯一苦情を貰ったのは

主人が夜中ドーナツ版で ちょっと大きな音で聴いていた音楽)

 

そんな古い長屋の 押入れ改造を思い立ち

思い立ったら夜中でもゴソゴソ始める私は 

 

何回目かの個展を 間近に 控えているというのに 

 

カーテンを縫っていた!!

 

いつもの癖である。

 

期末テストでいつもより早く帰宅したのに 

テスト勉強そっちのけで つい大好きな本を読んでしまう 

あの心境・・・

 

そこへ なんと  かみさまからの ビビビー・・・!!

 

そして

カーテンはもういいから  し・ご・と、、、だって、、、!!??

 

しかし 

生来の のんき者が仕事をスタートしたのは 

カーテンをちゃんと仕上げて 取り付けてからだった。

 

 

彼のビビビの話は 途切れながらも 1年くらい続いたろうか、、、

 

私へのメッセージは 結局 カーテンの件だけで、 

あとは 月の裏側のUFOの話や 宇宙や 魂や 

いろんな話に及んだ。

 

 

「かみさま ダメって言ったけど  ボク  話しちゃった・・・」

 

きまり悪そうに あ~~あ 言ちゃった~という表情、、、 

 

彼なりに迷ったのだろう、、、

 

かみさまの話は 私と2人の時にしていたのだが

ある時 

 

「 あっ ママ  ボクの話 信じてな~~~い、 もういい! 」

 

と 言ったきり、終わった。 

 

二度と話さなかった。

 

 

当時 私はUFO会員で 

周りには何故か 

チャネラーさんや霊能者さんや超能力者と云われる人達が少なからずいて 

長男の話は全部わかっているつもりだったし

喜んで聞いてるつもりだったけれど、、、

 

しかし心の何処かに疑う気持ちがあったのかも知れない、、、

 

自分では全く そんなつもりは無かったけれど

彼には 何か感じられたのだろう・・・

 

以来 話さなかった。

 

彼自身も 今はすっかり忘れているが

 

ある時 まだ 彼が話していた頃

 

「 かみさまって どんなひと? 」って聞いたことがあった。

 

その頃彼は 色々面白いマンガ絵を描いていたから

そののりで描いてくれたのだろう

 

「 こ~~んなひと~~~!」 と言って描いた。

 

それがコレ

 

(上の方の茶色の所は 破れをテープで貼った部分、

30年も経つので 変色)

 

 

「 周りの くるくる はなあに?」

って聞いたら

 

「光ってるの~~~」

と言っていた。

 

 

 

 

 

・・・後日談・・・

のちに この話を 友人のチャネラーさんに聞いてもらったところ

糸電話の相手は 

なんと  

「未来の彼」 とのことだった。

 

未来の自分と話し 未来の自分を描いたことになる、、、

 

 

友人のチャネラーさんとは

〇「新べスのブログ」の べスさんだ。

https://gaia-shamballa.xyz/blog/

 

このブログは 実に多くの読者のボランティアで成り立っている。

 

そして 内容はすべて 読者の質問と その答え。。

 

一方的に 誰かが話したり 

何処かに書いてあったりするものではない。

 

べスさんは 

読者質問の返答を シャンバラから聴いて

ひたすら パソコンに打ち込み、

 

それを英訳して打ち込む 米在住の方もいる。 

 

パソコン操作に詳しい裏方さんも

 

コツコツと過去質問を纏めて 1語1語 WIKI 作成をしている方達もいる。

 

実に多くの方のボランティアスタッフで 毎日更新され 日々生まれて

 

内容も唯一無二   ユニークだ!!

 

運営方法も 同じく稀有だろう。

 

自然発生的に生まれたある種 パソコン内生命体、、、(?)

とでも 呼びたくなる。

 

そんなべスさんから ビビビの向こうは 未来の彼とのこと、、

 

世界はパラレルワールドで 

過去も未来も現在も 今 同時に ここに存在しているというから

 

ならば

未来の彼が 過去の彼に コンタクトしてきても

不思議はない

 

時々あちらからこちらを 覗いて見てたりするのかもしれない、、

 

彼がかみさまと表現したのは 彼自身の未来の姿だったけれど

古来 人は宇宙人を神と呼んだり

森羅万象 、   地球 = ガイア = 神、、、など  

捉え方も 呼び名も さまざまだろう、、

 

私が思ってきたのは究極の神、、

 

「新べスのブログ」によると 

究極の神とは 「ザイン」 で この地球に存在するという。

 

〇神

https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=262

 

〇ザイン

https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=236

 

 

それから 意識って何? と思い続けて 今にいたるけれど

「新べスのブログ」によれば

「全ては 電気で出来ている」 とのこと、、、

 

ならば 意識も電気で出来ているのか・・・?

 

WIKI には まだ意識の項目が無かったが 

電気は 1種類だけではなく

有機電気 無機電気など あるらしい。

 

〇電気

https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=148

 

これからも 折に触れ 

意識って何、、? という思いは続くだろう。。。

 

 

以上 

5月に意識を失って事故を起こし

あらためて 思い出した30年も前のカーテンに纏わる話・・・

 

多分 そのあとだったと思うが

「 い ・ し ・ き 」 という版画を彫った

 

「い・し・き」 (60㎝×60㎝) 1991年

(四季と意識を併せた勝手な造語・外周左上から春夏秋冬・四隅は左上から地球・太陽・月・宇宙)

 

 

長男のような事例は 

30年も前のことだから

その後もきっと増えて 膨大な例が眠っているだろう、、

 

本人が言葉にできなかったり

或いは 周りが表現を制限してしまったり

そして大人になるにつれて忘れてしまったり、、、

 

 

本来 人は 2重螺旋の遺伝子だが 今では

3重螺旋の遺伝子を持った子供たちが生まれているという

 

〇遺伝子

https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=296

 

〇遺伝子操作

https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=294

 

幼くして何かに秀でた能力の子供達を動画などで目にするが

世界には色んな分野で

そういった子供たちが大勢いて

それが普通になっていくのかもしれない

 

 

子どもだから、、 大人だから、、などというボーダーもなくなり 

 

未来には 地球には 

 

それがもう自然なことなのだろうと思う。

 

 

 

 

『 2020年5月の事故をきっかけに 

6月から 主に「意識」に纏わる話を書くことにした。

 

「意識って何・・・?」

 

そこに一歩でも近づくきっかけになればと思う。』

 

 

 

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「ママのお腹ん中にはテレビがあってね ボクはそれで見ていたんだよ」

当時5~6歳だったかな、、、

 

むか~しお寺さんに納めた観音さまのことが

ある時 話題になって 

それを聞いてた長男が突然言いました。

 

「ボク それ 知ってるよ」

 

「・・・ (そんな筈はないのだが、、、)」

 

「ふ~~~ん・・・(だって君が生まれて来る前だし、、、)」

 

「そん時 ママのそばには 3人おじいさんがいたよ」

 

「・・・(そんなん見てないし、、、)」

 

「どんなおじいさん?」

 

「こ~~んなおじいさん!!」

 

と言って 眉毛が長~かったり 

お髭が垂れ~てたり 

杖を持ってたり という仕草をして見せてくれた、、

(・・まるで仙人・・?)

 

当時 私のお腹には彼がいて 

丸太(高さ150㎝位)を抱えて 起こしたり 寝かせたりするのに

支えとして丁度良いでっぱりになっていた。

 

生まれる前に仕上げなくっちゃ~・・・と

出っ張ったお腹も 道具のように使っていた。

 

圧迫されて、、

さぞかし窮屈だったことだろう・・・!!

 

「お顔がね~  こ~~んなになったよ!!」

おどけて ひょっとこ面みたいな顔をして 見せてくれた

 

(そうか~、、羊水子宮の中でも お顔が変形するのかぁ~、、、)

 

そして数年後 彼はお腹ん中のテレビで見ていたから

あの観音さまを知ってると言うのだ、、(・・胎内記憶・・?)

 

しかも私の周りにはおじいさんが3人・・・

 

でも助っ人は頼まなかったし

最後まで一人で彫っていたから

お爺さんなんて見ていない、、、

 

見ていないけれど

 

きっと私には透明なお爺さん達に見守って貰って 

何かと助けて貰っていたのかもしれないね、、、

 

圧迫されても 元気で生まれてくるように

出産前に 仏さんが仕上がるようにって

 

今思えばも~~ 無事生まれて来てくれて

ありがとう~~~!!の世界です

 

お陰様であの観音様も 毎朝ご住職(開雲寺)と共にあると聞いてますし

木彫

「木彫仏」 (エノキ・150㎝位)

 

今は何やら金箔を貼られてしまったらしいのですが

その姿はまだ見てないので いつか会いに行きたいな、、、

 

その頃は丁度 孫が

「ボクそれ知ってるよ」と言い出した時の長男と 同い年になるけれど

 

すっかり子煩悩親父になった彼は

なぁ~んにも 何にも 覚えてないとのこと、、、也。

 

 

 

追伸

今まで 上記のような類の事をブログに公開するのはほとんどなかったけれど

先月の自分の自爆事故をきっかけに

「も~~~書かなきゃ・・・」

って思いが湧きあがって来て

 

何から書こう~と思った時に浮かんだのが「お腹ん中のテレビ」。

 

孫が まもなく4人目生まれてくる年齢で

20代の頃から UFO や 宇宙や 見えない世界やらが

当たり前に生きてて

なのに何度も躊躇してきて

 

命拾いした事故で・・・意識が消えていた約1時間半・・・

これをきっかけに

Amebaブログタイトルを

 

「母子曼荼羅 ・ いしき のブログ」

 

に変えて

意識に纏わるアレコレを 気の向くまんまに書いていこうと思い立った・・・。

見切り発車ですが お付き合い頂ければ幸いです。

 

木版画 

「母子曼荼羅」 (白黒・53㎝×53㎝)

 

(青・黒)

 

 

 

 

 

 

 

 

【 2020年5月の事故をきっかけに 

6月から 主に「意識」に纏わる話を書くことにした。

「意識って何・・・?」

そこに一歩でも近づくきっかけになればと思う。】

 

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