濱崎茂木彫作品の殆どを Oさんは収集している。
30数年前 パトカーで市内を巡回中 共同アトリエの駐車場で大人4~5人が手作り木製コースでミニ四駆を走らせ 嬉々として遊んでる姿を見かけて 声をかけたのが出会いだったという。
2014年に彼が亡くなって 初めて 私はOさんが収集してきた浜ちゃんの作品たちに会いに行った。
大学時代は担当教授も教室も違って 殆ど話したこともなかったのに そこで出会った濱ちゃんの木彫は ただただ 衝撃だった。
その時の感動は 言葉にならないまま時を経て、先日2度目の訪問をして あらためて 何とかして 伝えたいと思った。
幸い新しくなった携帯で写真も撮らせて貰った。
敢えてその時の気持ちを言葉にすると 敬虔 という文字が一番近いのかもしれない・・・
人物は勿論 子どもたちを彫っていても 犬や猫を彫っていても ホオヅキやザクロや蓮の実を彫っていても 私には祈りに見えて 萎んで朽ちてる野菜でさえ 私の目の前には 祈りの対象として存在した・・・。
Oさんの書斎にあった木彫から撮らせて貰った。
壁一面の書棚の前には あの 酒井雄哉大阿闍梨の像が、
・・・千日回峰行を2度満行した行者さんが笑っている。
母が旅立った。
来年早々の個展開催を目前に・・
本当は 真っ先に母に観て欲しかったのに・・
コロナ前に ふる里の「下野市役所市民ロビー」での開催が決まった時
「かんぴょう」をテーマに父母の働く姿を彫ろうと思った。
夏と言えば大人も子供も「かんぴょう」〜〜
夏休みは毎日「かんぴょう剥き」
朝早くまだ薄暗いうちに起きてかんぴょうを剥(む)く
家族総出で自分に出来る事をする
かんぴょうを剥くと長いのばかりではない 剥く人の腕にもよるけれど 短いのも沢山出来てくるから、その短い「しっこき」を 低い竿に干したり、 父がかんぴょうを剥く横で「口取り」をしたり、、、
平均してどの位 剥いたのだろう・・
1日に200個位は剥いたのではなかろうか、、
子供が口取りしたのを 母が纏めて竿にあげて、長さを切り揃えて 庭いっぱいの棚へ運ぶ
棚に竿をかけて 祖母や手の届く者が 一本一本干して行く
全部干し終わる頃にはもう太陽は真上・・
でも干して終わりではない
朝早いからお昼を食べたら昼寝して その後には「裾分け」が待っている。
手ぬぐいを ほっかむり(頬かむり)してかんぴょうの林に分け入る
かんぴょうの剥きたてはヌルヌルしているから間隔を開けて干しても 裾どうしがくっついてしまう、、、
なので、人の手で くっついた裾の先を 手刀で一つ一つ分けて行く
そのかんぴょうの林の中に入ると ヒヤッとした清涼感に包まれて 何十年経っても体は覚えている
小さい子なら その下を駆け抜けたくなるだろう・・
午後は干されて乾いたかんぴょうを束ねていると 毎日のように「かんぴょう買いの○○さん」と呼んでた人がやって来る
仲買人さんというのかな、、各家を回って買って行った。
夕方になると かんぴょうの「花合わせ」が待っている。
かんぴょうは「ユウガオ」の実を剥いて干したもの・・
ユウガオの花は夕方にならないと咲かないから 咲くのを待って 雄しべの花粉を雌しべの先にチョンチョンとつけてあげる
それが「花合わせ」の作業
もっぱら子供の仕事で、父母は明日剥くかんぴょうを切り出して運ぶ。
一個一個がとても重い
ひょうたんのような長いものもあるが 私は実際に見た事はなくて 下野市のかんぴょうは丸くて大きい!!
直径30センチにもなれば 20キロくらいあるんじゃなかろうか・・という重さだ
それを背負いかごに入れたり 手に持ったり、なるべく一遍に運ぼうとして、父はグローブのような手で2個も掴んだりしていた
(母はお見合いの時 父の手しか見てなくて、グローブのような手の人だなと思ったのだそうだ)
夕方薄暗くなったかんぴょう畑で、新しい実やツルの先を 踏まないように 踏まないように ソロリ ソロリと 脚を運びながら花合わせをする
薄闇に白くボンヤリ浮かび上がっているユウガオの花の中で どれが雄花でどれが雌花か見分けるのだけど、見分けがついた・・
雄花をちぎって雄しべの花粉を雌花の先にチョンチョンとつける
勿論 ミツバチさんたちもその役割を担ってくれていたと思う
耕運機の後ろのリヤカーをいっぱいにしても 一遍には運べないから往復して運んで
夕飯食べてからも 父母は乾燥したかんぴょうの束ねをしていた
そして朝は早い
それに当時は夕立ちが毎日のようにあったから
天日干しだった当時は、その都度濡れないように作業場の軒下に運ぶから
天気にも左右されて
それこそ夏場はかんぴょうに追われる かんぴょうの季節だった
当時 いつも喜んで手伝ったわけではないけれど 夏の記憶は かんぴょう〜・・・
それと夕立ち
夕立ちのことは「らいさま」と言っていた
雷様でライサマ・・
雷様は 稲の妻と書いて稲妻・・
何故稲の妻なのか・・・
昔は稲の夫(つま)と書いたらしいが 雷が多いと米の実りが良く豊作なのだそうだ
「らい様が来るぞ〜」と言われると雨戸を閉めて
その雨戸の節穴から外を見ていた
暴れる木々
叩きつける雨
「アッ 今のはどっかに落っこちたかもしんない、、、」と思うような落雷の音
(実際 神社の木に落ちたり
同級生の家に落ちて燃えたりした)
その落雷の音の数秒前に走る閃光
その閃光に浮かび上がる 庭や蔵や雨屋(あまや)や隣家の欅、、は見つめるにあたいした
怖がりながらも 見つめていた
かんぴょうの話を書き出したら 長くなってしまった、、、
「かんぴょう剥き」や「かんぴょうの花合わせ」を彫ったら、母に見て貰おうと思っていたのに 間に合わなかった・・
先日 49日で親戚が故郷に集まった時
母の遺影を見ては 皆が口々にいい笑顔だ〜〜と言う
享年93歳だったが遺影の写真はいつのだったかわからないが
ホントにいい笑顔〜・・
下野市役所市民ロビーでの個展案内と一緒に 載せておこうと思う・・
良かったら見て下さい。
⬇自分用ハガキサイズ
明るい未来を無意識に 当たり前のように思って 聞いたのだろうと思う
元ブログ→http://blog.livedoor.jp/mokutyou/ おいちゃんの木彫りっこギャラリー
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ある時 長男5歳が 突然言い出した
「 ママ あのね かみさまがね みえない糸でんわで ビビビビビ~ッて おはなし してきたよ 」
「 ふ~~~ん、、 なんて? 」
「 あのね お家はじゅうぶん シ ・ ア ・ ワ ・ セ !! カーテンは もう いいって!! オ ・ シ ・ ゴ ・ ト !! 」
ひとこと ひとこと 区切った言い方が 印象的だった。
当時 片付け大好きな私は 襖を外して なんとか 押入れを有効利用しようと カーテンを縫っていた。
「 え~~っ!! じゃ~、 かみさまが ママに カーテン縫ってないで オ ・ シ ・ ゴ ・ ト って 言ってるの?」
「うん!!」
何度も聞き返してみたが どうも そうらしい・・・
せっかく いい気分で カーテン作ってたのに・・・
当時は新宿に近い方南町に住んでいた
職人長屋だった。
友人が初めて訪ねてくると 決まって
「 いったい ここはどこ~?! 何時代~?!」
と 驚いた。
周囲とはまるで違って
江戸時代さながらの 古い二軒長屋が
四棟( 8軒分) 建っていた
中庭奥には 古いポンプ井戸が健在で
飲んだりはしなかったけれど
夏は大きなゴムプールに そのポンプから水を汲んで
ご近所の子供達も 一緒に わいわいがやがや、、、
みんなの遊び場になった、、、
都会なのにそこだけ田舎みたいで
今振り返ると 子どもにとっても
時々個展の私にとっても
子育てには幸運な場所だったのではないかと思う
大工さんだった義父と
義母が結婚以来何十年も住んでいた「職人長屋」
平屋の古い家は隙間だらけで
板壁からは 壁土がところどころこぼれて
光が漏れてたりしていたけれど
4棟の内 2軒借りていたから
1軒はほとんど私の仕事場になった
右隣は左官屋さんで
義母は隣のおばあちゃんとは 長~い付き合い
左は小さな精密なネジを作っているおじさんちで
朝 長女がいないなぁ~と思っていたら
そのお家で納豆ご飯を食べてて
「大したもんじゃないんだから いいのよ~~」と おばさん、、
私の妹も一時期同居したり 時々友人の子を預かったり
何かと賑やかだった
まるで はっつあん・くまさんの江戸落語みたいな世界、、、
そんな職人長屋だったから
私が仕事で 大きな音を出しても お互いさま、、、
(唯一苦情を貰ったのは
主人が夜中ドーナツ版で ちょっと大きな音で聴いていた音楽)
そんな古い長屋の 押入れ改造を思い立ち
思い立ったら夜中でもゴソゴソ始める私は
何回目かの個展を 間近に 控えているというのに
カーテンを縫っていた!!
いつもの癖である。
期末テストでいつもより早く帰宅したのに
テスト勉強そっちのけで つい大好きな本を読んでしまう
あの心境・・・
そこへ なんと かみさまからの ビビビー・・・!!
そして
カーテンはもういいから し・ご・と、、、だって、、、!!??
しかし
生来の のんき者が仕事をスタートしたのは
カーテンをちゃんと仕上げて 取り付けてからだった。
彼のビビビの話は 途切れながらも 1年くらい続いたろうか、、、
私へのメッセージは 結局 カーテンの件だけで、
あとは 月の裏側のUFOの話や 宇宙や 魂や
いろんな話に及んだ。
「かみさま ダメって言ったけど ボク 話しちゃった・・・」
きまり悪そうに あ~~あ 言ちゃった~という表情、、、
彼なりに迷ったのだろう、、、
かみさまの話は 私と2人の時にしていたのだが
ある時
「 あっ ママ ボクの話 信じてな~~~い、 もういい! 」
と 言ったきり、終わった。
二度と話さなかった。
当時 私はUFO会員で
周りには何故か
チャネラーさんや霊能者さんや超能力者と云われる人達が少なからずいて
長男の話は全部わかっているつもりだったし
喜んで聞いてるつもりだったけれど、、、
しかし心の何処かに疑う気持ちがあったのかも知れない、、、
自分では全く そんなつもりは無かったけれど
彼には 何か感じられたのだろう・・・
以来 話さなかった。
彼自身も 今はすっかり忘れているが
ある時 まだ 彼が話していた頃
「 かみさまって どんなひと? 」って聞いたことがあった。
その頃彼は 色々面白いマンガ絵を描いていたから
そののりで描いてくれたのだろう
「 こ~~んなひと~~~!」 と言って描いた。
それがコレ
(上の方の茶色の所は 破れをテープで貼った部分、
30年も経つので 変色)
「 周りの くるくる はなあに?」
って聞いたら
「光ってるの~~~」
と言っていた。
・・・後日談・・・
のちに この話を 友人のチャネラーさんに聞いてもらったところ
糸電話の相手は
なんと
「未来の彼」 とのことだった。
未来の自分と話し 未来の自分を描いたことになる、、、
友人のチャネラーさんとは
〇「新べスのブログ」の べスさんだ。
https://gaia-shamballa.xyz/blog/
このブログは 実に多くの読者のボランティアで成り立っている。
そして 内容はすべて 読者の質問と その答え。。
一方的に 誰かが話したり
何処かに書いてあったりするものではない。
べスさんは
読者質問の返答を シャンバラから聴いて
ひたすら パソコンに打ち込み、
それを英訳して打ち込む 米在住の方もいる。
パソコン操作に詳しい裏方さんも
コツコツと過去質問を纏めて 1語1語 WIKI 作成をしている方達もいる。
実に多くの方のボランティアスタッフで 毎日更新され 日々生まれて
内容も唯一無二 ユニークだ!!
運営方法も 同じく稀有だろう。
自然発生的に生まれたある種 パソコン内生命体、、、(?)
とでも 呼びたくなる。
そんなべスさんから ビビビの向こうは 未来の彼とのこと、、
世界はパラレルワールドで
過去も未来も現在も 今 同時に ここに存在しているというから
ならば
未来の彼が 過去の彼に コンタクトしてきても
不思議はない
時々あちらからこちらを 覗いて見てたりするのかもしれない、、
彼がかみさまと表現したのは 彼自身の未来の姿だったけれど
古来 人は宇宙人を神と呼んだり
森羅万象 、 地球 = ガイア = 神、、、など
捉え方も 呼び名も さまざまだろう、、
私が思ってきたのは究極の神、、
「新べスのブログ」によると
究極の神とは 「ザイン」 で この地球に存在するという。
〇神
https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=262
〇ザイン
https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=236
それから 意識って何? と思い続けて 今にいたるけれど
「新べスのブログ」によれば
「全ては 電気で出来ている」 とのこと、、、
ならば 意識も電気で出来ているのか・・・?
WIKI には まだ意識の項目が無かったが
電気は 1種類だけではなく
有機電気 無機電気など あるらしい。
〇電気
https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=148
これからも 折に触れ
意識って何、、? という思いは続くだろう。。。
以上
5月に意識を失って事故を起こし
あらためて 思い出した30年も前のカーテンに纏わる話・・・
多分 そのあとだったと思うが
「 い ・ し ・ き 」 という版画を彫った
「い・し・き」 (60㎝×60㎝) 1991年
(四季と意識を併せた勝手な造語・外周左上から春夏秋冬・四隅は左上から地球・太陽・月・宇宙)
長男のような事例は
30年も前のことだから
その後もきっと増えて 膨大な例が眠っているだろう、、
本人が言葉にできなかったり
或いは 周りが表現を制限してしまったり
そして大人になるにつれて忘れてしまったり、、、
本来 人は 2重螺旋の遺伝子だが 今では
3重螺旋の遺伝子を持った子供たちが生まれているという
〇遺伝子
https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=296
〇遺伝子操作
https://gaia-shamballa.xyz/wiki/?p=294
幼くして何かに秀でた能力の子供達を動画などで目にするが
世界には色んな分野で
そういった子供たちが大勢いて
それが普通になっていくのかもしれない
子どもだから、、 大人だから、、などというボーダーもなくなり
未来には 地球には
それがもう自然なことなのだろうと思う。
『 2020年5月の事故をきっかけに
6月から 主に「意識」に纏わる話を書くことにした。
「意識って何・・・?」
そこに一歩でも近づくきっかけになればと思う。』
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「ママのお腹ん中にはテレビがあってね ボクはそれで見ていたんだよ」
当時5~6歳だったかな、、、
むか~しお寺さんに納めた観音さまのことが
ある時 話題になって
それを聞いてた長男が突然言いました。
「ボク それ 知ってるよ」
「・・・ (そんな筈はないのだが、、、)」
「ふ~~~ん・・・(だって君が生まれて来る前だし、、、)」
「そん時 ママのそばには 3人おじいさんがいたよ」
「・・・(そんなん見てないし、、、)」
「どんなおじいさん?」
「こ~~んなおじいさん!!」
と言って 眉毛が長~かったり
お髭が垂れ~てたり
杖を持ってたり という仕草をして見せてくれた、、
(・・まるで仙人・・?)
当時 私のお腹には彼がいて
丸太(高さ150㎝位)を抱えて 起こしたり 寝かせたりするのに
支えとして丁度良いでっぱりになっていた。
生まれる前に仕上げなくっちゃ~・・・と
出っ張ったお腹も 道具のように使っていた。
圧迫されて、、
さぞかし窮屈だったことだろう・・・!!
「お顔がね~ こ~~んなになったよ!!」
おどけて ひょっとこ面みたいな顔をして 見せてくれた
(そうか~、、羊水子宮の中でも お顔が変形するのかぁ~、、、)
そして数年後 彼はお腹ん中のテレビで見ていたから
あの観音さまを知ってると言うのだ、、(・・胎内記憶・・?)
しかも私の周りにはおじいさんが3人・・・
でも助っ人は頼まなかったし
最後まで一人で彫っていたから
お爺さんなんて見ていない、、、
見ていないけれど
きっと私には透明なお爺さん達に見守って貰って
何かと助けて貰っていたのかもしれないね、、、
圧迫されても 元気で生まれてくるように
出産前に 仏さんが仕上がるようにって
今思えばも~~ 無事生まれて来てくれて
ありがとう~~~!!の世界です
お陰様であの観音様も 毎朝ご住職(開雲寺)と共にあると聞いてますし
「木彫仏」 (エノキ・150㎝位)
今は何やら金箔を貼られてしまったらしいのですが
その姿はまだ見てないので いつか会いに行きたいな、、、
その頃は丁度 孫が
「ボクそれ知ってるよ」と言い出した時の長男と 同い年になるけれど
すっかり子煩悩親父になった彼は
なぁ~んにも 何にも 覚えてないとのこと、、、也。
追伸
今まで 上記のような類の事をブログに公開するのはほとんどなかったけれど
先月の自分の自爆事故をきっかけに
「も~~~書かなきゃ・・・」
って思いが湧きあがって来て
何から書こう~と思った時に浮かんだのが「お腹ん中のテレビ」。
孫が まもなく4人目生まれてくる年齢で
20代の頃から UFO や 宇宙や 見えない世界やらが
当たり前に生きてて
なのに何度も躊躇してきて
命拾いした事故で・・・意識が消えていた約1時間半・・・
これをきっかけに
Amebaブログタイトルを
「母子曼荼羅 ・ いしき のブログ」
に変えて
意識に纏わるアレコレを 気の向くまんまに書いていこうと思い立った・・・。
見切り発車ですが お付き合い頂ければ幸いです。
木版画
「母子曼荼羅」 (白黒・53㎝×53㎝)
(青・黒)
【 2020年5月の事故をきっかけに
6月から 主に「意識」に纏わる話を書くことにした。
「意識って何・・・?」
そこに一歩でも近づくきっかけになればと思う。】
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