ずっときのうの宝塚グラフの記事経緯説明(題名に謝罪とは入っていませんでした)がなぜちょっと変えて再掲になったのか、を考えているのですが理由が思いつきません。文の順序の入れ替えや「事実であり」が消え「笑った」が追加されたのはなぜなのでしょう。しかも再掲されたことで、「謝罪文は出したのだろうか」とポストも再燃。いいことは1つもないようでしたが・・・。

 

それからここではリンクしないのですが、去年の12月に出ていたNOTEの内容がなぜか最近誰かのポストにリンクされて、また読むはめになってしまいました。

 

内容は 情感的共感と認知的共感を紹介し、さまざまな感情は理解できるとした上で、亡くなった命に共感しすぎずに今生きている人の尊厳を大切にするべきではないかという結論に持っていくというものです。これが出たときに読みにいき、落胆と憤りでしばらく眠れなかったことを思い出しました。

 

亡くなった人を悼む VS 宙組再開 という構図にしていることが大きな誤りです。このことについては後日また改めて書きますが、事実認識ができている人ならすぐわかると思います。

 

ところで、生き残った人たちの方が大切だからと被害者遺族を誹謗中傷し続けた某マット事件は本当にひどいものでした。ほかにも多数の事件で問題になっているのが、加害者人権重視・遺族軽視です。「これから生きていくのは生きている人なのだから、そちらのことをもっと考えよう」という、一見筋の通ったこの考えは、実はとても危険なものです。

 

今回パワハラ行為者はご遺族に謝罪しました(全員ではありませんが)。それで合意が成立しました。問題はここからです。では、劇団として(阪急阪神HDとして)パワハラ行為者をどうするのですか。その答えが「何もしない」だったから、それはないよね? ここでけじめをつけなかったら一般社会では通用しないですよ、と言っているのです。

 

上で読んだNOTEでは生きている人の尊厳を考えてと主張していました。でも「やったことに対して責任を取る」ことは尊厳を失うことなのでしょうか? 他人の尊厳を傷つける行為をしたので仕事上の責任をどうするのか? 本人たちは自分で処罰を決める立場にないのですから、上司にあたる人がきちんと待遇を決めて、一定期間の何かを課し、パワハラについての指導をし、仕切り直してスタートさせるべきではないですか?と言っているのです。

 

上司にあたる人たちが何もしないから、本当は決められないところにいる本人たちが非難されてしまうのは、おかしいと思います。上司たちは舞台に上がりません。さらされるのは守られたはずの本人たちですよ。組織が個人名を出さずに守っているように見えながら、実際は全然守れていない。これで宙組が始まっても、本人たちに責めが行くでしょう。きのう始まった前トップのコンサートの記事についた可哀そうなくらいの非難コメントを見れば、今後何が起こるか予測できますよね。

 

人の尊厳、人権は何もしなくても守られるというものではありません。世界の歴史を見ても、勝ち取ってきたもの。侵されたら闘って取り戻すものです。生きている人たちにはそれができます。亡くなった人はそれができません。だからこそ、強い力で亡くなった人の人権を守らなくてはいけません。

 

生きている人は黙っていないで自分の尊厳を守るための道を探してほしいと思います。

 

そのためにも、上司にあたる人(劇団上層部)は腕のいい法律家と相談して、やるべきことをやるべきだと、一般の通りすがりとして記しておきます。