卑弥呼のことが気になって
調べてみた
「魏志」倭人伝には
卑弥呼の死について
「卑弥呼以死」とあります
この「以死」は
後の人たちによって様々に読解されました
①卑弥呼は以(よって)て死す
②卑弥呼は以(すで)に死せり
③卑弥呼死するを以(もって)て
「以」を原因と考えると
前段の語にかかってきます
前段には
「為檄告喩之」とあります
「檄(ふれぶみ)を作って諭した」のです
当時
狗奴国の王が卑弥呼と対立し
戦闘状態でした
困った卑弥呼は魏に助けを求めます
その返事が「為檄告喩之」です
檄の内容は分かりませんが
“「金印」まで渡して倭国の女王と
認めたのに何しとんじゃ~”
と叱責されたなら
倭国を治めることができなくなって
味方の諸王によって殺されたか
責任をとって自ら死を選んだか
①②の「よって、もって」が
妥当となります
いや
卑弥呼は西暦180年ごろから
倭国の女王になっています
10代で女王になったとして
亡くなった247年が248年となれば
80歳前後です
寿命が来ていたのかもしれません
檄に
”応援しているから頑張れ!”
と書かれていても
②の「すでに」死んでいたとも
とれます
どの可能性もありそうです
「卑弥呼以死」の後の語は
「大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」
卑弥呼の死後
大きな冢(墓)を作った
径は100余歩あり
殉葬された奴婢は100余人である
共通点が多く造営された年代が合うのが
桜井市の箸墓古墳といわれています
宮内庁では
箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛命
(やまとととひももそのひめのみこと)
としています
記紀の記述からも
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と
されることが多い
やっぱり
邪馬台国は奈良の地に
あったのだと思いますよ