卑弥呼のことが気になって

調べてみた

 

「魏志」倭人伝には

卑弥呼の死について

 

「卑弥呼以死」とあります

魏志倭人伝 卑弥呼以死 研究 に対する画像結果.サイズ: 154 x 185。ソース: rekishi-memo.net

 

この「以死」は

後の人たちによって様々に読解されました

 

①卑弥呼は以(よって)て死す

②卑弥呼は以(すで)に死せり

③卑弥呼死するを以(もって)て

 

「以」を原因と考えると

前段の語にかかってきます

 

前段には

「為檄告喩之」とあります

 

「檄(ふれぶみ)を作って諭した」のです

 

当時

狗奴国の王が卑弥呼と対立し

戦闘状態でした

 

困った卑弥呼は魏に助けを求めます

その返事が「為檄告喩之」です

 

檄の内容は分かりませんが

 

“「金印」まで渡して倭国の女王と

 認めたのに何しとんじゃ~”

と叱責されたなら

 

倭国を治めることができなくなって

味方の諸王によって殺されたか

責任をとって自ら死を選んだか

 

①②の「よって、もって」が

妥当となります

 

いや

 

卑弥呼は西暦180年ごろから

倭国の女王になっています

 

10代で女王になったとして

亡くなった247年が248年となれば

80歳前後です

 

寿命が来ていたのかもしれません

 

檄に

”応援しているから頑張れ!”

と書かれていても

 

②の「すでに」死んでいたとも

とれます

 

どの可能性もありそうです

 

「卑弥呼以死」の後の語は

「大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」

 

卑弥呼の死後

大きな冢(墓)を作った

径は100余歩あり

殉葬された奴婢は100余人である

 

共通点が多く造営された年代が合うのが

桜井市の箸墓古墳といわれています

 

宮内庁では

箸墓古墳は倭迹迹日百襲媛命

(やまとととひももそのひめのみこと)

としています

 

記紀の記述からも

卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と

されることが多い

 

やっぱり

邪馬台国は奈良の地に

あったのだと思いますよ