展示室2は

主に火葬についての展示です

 

日本で最初に火葬されたのは

道昭という僧です

続日本紀には

「天下の火葬此れより始まれり」

とあります


天皇では

持統 文武 元明 元正と

4代火葬が続きました

 

どうやら

火葬も中国や朝鮮から

取り入れられたもののようです

 

古墳時代にも火葬墓がありました


渡来人の墓と思われる

高取町の与楽古墳群からは

焼骨が出土しています


与楽古墳群の火葬墓は

石室内で遺体を焼却し

そのままにしてあり

拾骨はされていません


身につけていた釵子が

焼骨とともに出土しています


本来の火葬は

荼毘・焼骨・拾骨を経て

埋葬されますが


ここでは

そのような様相が見られません


律令の「喪葬令」では

火葬に関する規定はなく

都や道路の近くに埋葬することは

禁じています


県内の火葬墓の分布を見れば

京には火葬墓がないことが分かります


奈良時代になると

焼骨は骨臓器に拾骨されたようです


しかも平城京では

北側の佐保地域に天皇陵

東山中の田原地域に官吏の火葬墓が

分布しています


何らかの意図があったとしか思えません


佐保地域からは

珍しい三彩骨臓器が出土しています

手の込んだ焼物です


中・下級役人の場合は

須恵器や土師器だったようです


ただ太安万侶の場合は木櫃でした


階層や経済力や宗教観によっては

金属製の骨臓器もあります


骨臓器は石製外容器に

納められているものもあります

面白いのは

古墳時代の石棺に塗られていた

朱色の塗料があることです


朱色には

死者が静かに眠るため

外から死者を守るため

などが考えられます


葬送の方法が変わっても

変わらない儀礼もあるような

気がします


天皇の葬送についても

簡素化に努めています


元明天皇は遺詔で

自身の葬儀の時は

王侯や役人は平常の業務をすること

佐保山に造った火葬場を

そのまま墓とすることと

薄葬を求めています


最新の調査では


安万侶の墓誌には

下書きらしい痕跡や

筆順と違う鏨彫の跡などが

発見されたそうです


今後

それらにどんな意味があるのか

報告が楽しみです