昨年1月に報道された

佐田タカヤマ遺跡の

「のろし台」

 

逆です

「のろし台」が見つかって

佐田タカヤマ遺跡と

名付けられました

 

高取町の佐田ならば

牽午子塚古墳からは

目と鼻の先のはず

 

佐田の集落から入ってみます

 

高取中学校に赴任したとき

佐田は同じ苗字○○姓のお宅ばかり

と教えてもらいました

 

確かに

ここから通っていた生徒は

〇〇さんでした

 

それほど高くない山の斜面に

立ち並ぶ民家や

その下に作られた棚田の風景は

ノスタルジックで心が癒されます

 

下を走る道路から見上げる

その景色が好きで

わざわざここを通って

家路についたこともありました

 

等高線をたどるような

村の中の細い道を走り

出会った人に

「のろし台はどこですか?」

と聞くと

「この道を真っ直ぐに行き

 農道の先にいったらわかるから」

と教えられました

 

教えられたとおり行くと

農道は行き止まり

けもの道が山に続きます

 

倒木が立ちはだかり

「来るな!」と言っているようです

道の先がなくなったので

農作業をしている人に

「のろし台はどこですか」と尋ねると

今歩いてきた山の上を指さします

 

「どこから登るのですか?」

「さあ?」

 

仕方なく元へ戻ります

 

上を見上げると

木々の間から

高圧線の鉄塔が見えます

 

上る道が必ずあるはず

 

こちらは南側なので

北側へ回ろうと一旦山を下ります

 

鉄塔を目印に道を探します

 

あったあった

 

登り口を探し当て

いざ!

 

写真では分かりにくいですが

結構急な登りです

 

これが目印の鉄塔です

 

頂上に遺構がありました

なだらかな下った山頂に

穴が幾つもあります

 

付近の草や葉を

燃やしたそうですが

その跡はありません

 

当然か

 

日本書紀には

白村江の戦いの敗戦後

情報伝達のために

「烽(とぶひ)」を設けた

と記されています

 

「烽」とはのろし台のことです

 

この時 日本は

百済側につくのか

唐・新羅側につくのか

二択を迫られます

 

同時期

遣唐使を2度送っていることからも

解決を模索して対話を続けていたと

考えられるのではないでしょうか

 

結局 中大兄皇子は

百済からの難民を受け入れ

唐・新羅と対立することになります

 

海を渡っていつ攻めてくるのか

緊迫した状況だったのでしょう

 

いくつかのろし台をつくり

九州から首都飛鳥まで

1日で情報伝達ができたといいます

 

いち早く相手の動きを

知ろうとしていたことがうかがえます

 

1300年以上経った今と

よく似た状況が起こっています

 

ニュースを見るたびに

胸が痛くなります

 

今こそ知恵を出し合い

平和的な解決をしてほしいと

願います