先生の背中が、荒れた登山道を行く。

 岩を迂回して、ぬかるんだ赤土を踏みしめて、張り出した根っこを飛び越えて。少し肩で息をしながら、それでもペースは落とさない。後ろは振り向かず、時々先導する隊員と話しながらズンズン進む。

 

 うん、やっぱり先生はこうでなくちゃ。

 新聞の社会欄に載ってる時も、最初に研究室で会った時も、中央指揮所にお供した時も、先生はいつもストライプの入ったグレーの細身のスーツにアッシュのベリーショートの格好。

 でもなんでだか、私の中の先生のイメージは、いつまで経ってもベージュの探検服と登山帽のまま。今日はかなり久々の実地同行のはずなのに、いつもと変わらず斜面を軽々登ってくのを見てると、なんだかこっちまで勇ましい気持ちになってくる。

 

――ブーッ、ブーッ、ブーッ

 

 ポケットのスマホのタイマーが鳴った。そっか、もう三〇分も経ってたんだ。

 

 タイマーを切った瞬間、黒い画面に自分の顔が反射した。切れ長の目、息が上がって腫れぼったい頬、薄い唇。先生の真似して買ったベージュの探検帽の下からは、梳きすぎてスカスカになった前髪がデコに張り付いてる。

 貧相な自分の顔を見たら、さっきまでの高揚感も失せて、いい感じに仕事モードに切り替わった。足を止めると後ろを振り向いて、私よりもっと絶望的な顔をしてる後続に向かって目いっぱい声を張り上げる。

 

「先生方ぁ!報道関係の皆さぁん!ここでしばらく休憩とします、お疲れ様でぇす!水分補給をお忘れなく!木陰には入っていただいて結構ですが、ポールの外側にはくれぐれも立ち入らないようお願いいたします!再出発は十時半といたしまぁす!」

 聞き終わるや否や、中堅の長野県議達も、アイドル上がりで見事なウインクが売りの地方アナも、崩れ落ちるように近くの岩や木の根に腰を下ろした。休み休み登っているとはいえ、慣れてないと天狗岳は結構辛いよね。

 

 『ギャオス頭数調整政策及び自衛隊によるギャオス頭数調整作戦行動』通称T2作戦。今回はその一環である作戦行動後の実地検分。

 基本的にT2は私たち研究室メンバーと自衛隊だけで非公開で行っている。日本を維持するためのとっても大事で、すんごい地味で、気長で、そして暗い作戦だ。平和な日本を維持するための大事な仕事だって私たちは考えてるけど、最近はそういうのを国民へどんどんアピールして理解してもらわないといけない時代になった。だから定期的に作戦地のお偉いさんや報道を引き連れて、一連の作戦行動の中で一番映える実地検分を見てもらうのが最近の定番になっている。

 まあ、それ自体は良いことだと思う。人々が理解を求めるってことは、それだけ平和が当たり前になって、私たち研究室の活動が成果を出してるってことだし。

 それはいいのよ、それは。問題はさ……

 

「長谷部さん!長野県議の堀内です、先ほど中断した議論の続きをさせていただきますよ。我々日政党が一九九五年から野党第一党として主張してきたことは、国民生活第一、負担軽減。そして何より新民党の独裁とも形容できる強権政治と、人権を踏みにじり血税をむさぼるギャオス政策へのNOであります。三十年以上その主張を、ぶれずに、国民の声に耳を傾け寄り添いながら、訴えてきたわけでありますが、今回のT2作戦地でありますこの天狗岳を有します長野県での前回県議選において、我々は過半数以上の議席を獲得させていただきました。これは先刻申しました強権的な中央政治、負担が大きく、国民生活と尊厳を顧みないギャオス政策へのNOを突きつける県民の意思だと、我々確信しているわけでありますが、研究室は作戦地の地方選結果について、つまり地域の民意についてどの程度重視されておりますか?」

 

 あーもう、なんで私がスポークスマンなんだよぉぉ!

 

……オホン。先ほどと同じ回答になりますが、T2作戦そのものは防衛省と環境省を中心に計画・実行されており、我々研究室はあくまで情報提供をする立場にあります。我々はギャオスの生態・生活への影響・害獣としての対策を研究する一機関であり、その活動は原則政治的影響を受けないものであります」

 

 嗚呼、最初の先生の一言をキッパリ断ればよかったんだ……

『真琴ちゃんは落ち着いて喋れるし、政治的な流れも理解できてるし、いつもは副所長だけど、今回は真琴ちゃんにスポークスマンをお願いしたいの!』

 サシ飲みで重役任命、しかも『今回だけ』、とかいう絶対守られないランキング一位の言葉。フラグビンビンで首を縦に振った私がバカだった……

 

「あくまで民意は二の次、という立場は崩さないと。ですが研究室主任は特定害獣被害対策審議会の常任であり、防衛省・財務省・経産省への影響力も高く、新民党との癒着をにおわせる報道も数多く出ております。一介のアドバイザーに過ぎない研究機関が、国内外のギャオス関連情報を独占している現状を鑑みれば、利権が絡んでいると疑われるのは当然です。我々共生派クラブは、度々研究室に対し集約した情報の適正開示を行うべきと意見し質問状をお送りしていますが、今まで一度もご回答いただいていません。情報を共有し、全国の研究機関で多角的にギャオス研究を行い、日本のギャオス関連政策を根本的に見直すべきとは思われませんか?」

 

 そもそも前任でスポークスマンやってた副所長がノイローゼになって十円ハゲ出来てるの見た時に危機感を覚えるべきだったんだ。

『今回だけ』って言った先生は、そのうち『いつもと同じで』っていうようになって、最近じゃ新任の子にメンバー紹介するとき『スポークスマンの長谷部は知ってるわね?』とか言うし。

 

「情報は独占しているわけではなく、あくまでこちらに集中しているにすぎません。情報は地方研究機関とも共有しておりますが、我々が取得する情報には個人や法人の情報が多数含まれており、それぞれを公開した場合に起こりうるリスクについて検証する人的・時間的余裕がないため、非公開を原則としています。なお我々は、ギャオスとは人間を襲う極めて危険な害鳥であることを鑑みた上で、ギャオスから国民を守るために最善と考える提案をしております」

 

 やる前は全然想像してなかったけど、スポークスマンほど損な役回りもないと思う。組織の意見を政治的配慮をしながら発言し続けなきゃなんないし、決定権は無いから下手なことは言えないし、かと言ってノーコメントを連発すれば心証が悪いし、言いくるめられれば面子に関わる。だから実地検分とかになると、この堀内県議みたいにバッチリファンデ塗ってライブ配信用の専属カメラマンがついてる若手議員と四六時中レスバトルしなくちゃならない。特に二年前に国民負担軽減とギャオス政策コストカットを呼びかける白井総理が就任してから、負担は明らかに増えてきてる。私も十円ハゲとかできたらこの役職代わってもらえるかなぁ。

 

「視聴者そして支持者の皆さま!お聞きいただいたとおり、研究室の隠ぺい体質を変えるには、より大きな声をあげる必要があることがお分かりいただけたかと思います。では次に、」

 

 どの位置にカミソリ入れれば目立たないかなぁ、とか考えてたら視界の端で人影がよろめいた。ちょっと失礼!と堀内を押しのけて、その後ろの女性に駆け寄る、確か茅野市議の多田さんだったかな。

 

「大丈夫ですか?お座りになって下さい」

「若いとき登ったはずなんだけど、年取るともう駄目ね。ちょっと無理しちゃったわ」

「ご気分がすぐれない場合は隊員を手配して下山することも可能です。作戦地は後五キロほどの地点ですが、途中の斜面はこぶし大の岩石と木の根の露出が多く、足腰への負担を考慮していただく必要があります。いかがされますか?」

「いいのいいの、ヘルニアに響いただけだから。少し休めばすぐよくなるわ」

 

 本人はそういうけど急かすわけにもいかないし、結局他の人の様子も見て再出発は十一時近くになった。

 登山再開後にまた堀内がそばに寄ってきたけど、多田さんが間に入ってくれた。多田さんは新民党系議員クラブ所属の中堅だから、近藤・沼田・榊に近いギャオス関連政策を重視する前政権寄り、堀内とは水と油だ。

 

「ご覧ください!かつて自然の美しさを感じられた登山道も、背丈以上の無機質なプラスチック製のポールが両脇を固めています。この辺りは木々がなく、白地の醜いポールが山肌を這っているのが県内からもご覧いただけるかと思います。我々が独自に県民に対して行った調査によると、人工的な密生ポールや密生林が本来の景観にそぐわないと感じた方は九十%、それらが観光資源にマイナスに作用していると感じる方も実に七十%を超えました。こうした損失があったとしても、なお現在の対策法が最善であると?」

「ギャオスが山林にコロニーを構えてるんだから、社会活動を維持するための対策は不可欠ですよ。そもそも山道の安全柵構築の議論の際に、負担軽減を理由に木製ではなくプラスチック製を推したのは日政党さんだったじゃないの」

「時代が変化してきているのを貴女がたは理解してらっしゃらない!第一次及び第三次衝突で現れた巨大なギャオスは極度のストレスで巨大化した突然変異体でした。現在のギャオスはもっと小型で攻撃力もありません。クマやイノシシと同じです。我々は今こそ見方を変え、自然と寄り添って共存する方法を模索すべきなのです!厳しい言い方ですが、現在の、古い新民党の作ったシステムでは日本に未来はありません!」

 

 『突然変異』と『相変異』の違いとか、研究者としては何がなんでも訂正してやりたいところだけど火に油を注ぐだけだ。

 

「その発言には強く反論させていただきます!三度の巨大衝突により壊滅的な被害を受けた我が国が、第三次衝突後に世界に先駆けて復興を成し遂げた――」

 

 その時、山頂から吹き降ろす風が私たちの間を吹き抜けた。

 

 みな反射的に会話と足を止めて、辺りを見回した。だれも喋らない、でもみんな探してる。ソワソワとひと固まりに固まり出す。

 

「あ、あれ!」

 堀内の後ろのカメラマンがポールの外、茂みの奥の方を指した。少し離れたところに動物らしき死骸が倒れている。自衛隊員がポールに近づかないようとっさに割って入る。

 

「シカ、ですかね?」

「ギャオスにやられたんだ!背中に大きな傷があるし、内臓を食われてるぞ」

 一行は思い思いに「かわいそぉ……」「臭いなぁ、酷いもんだ」「服に臭い残らないでしょうね」「グロいけど映して平気すか?」なんて言葉を交わす。全員にマスクと防護服着用を促しながら、私はそれでも周りを見回し続けた。

 

 違う、アレじゃない。

 

 この匂い、風で一瞬運ばれてきた強烈な腐敗臭はあのシカじゃない。あのシカはまだ裂傷が鮮やか、血液の光沢と変色度合いから見ても、せいぜい死んで十数時間だ。

 もっと別の死体があるの?いや、でも今の匂いはギャオスだ。腐敗臭と一緒に、ギャオスが下半身に塗布する酸化したフン臭が混ざってる。

 

 まさか、作戦地から?まだしばらくあるはずなのに。

 

 と、先生の後姿が目に入った。相変わらず左手を腰に当てて隊員としゃべっていたけど、そっと左手が腰の後ろに回って、軽く握ったこぶしが親指を立てた。

 

 スゴイ!瞳孔が開いて血圧が上がるのが分かった。

 直後に作戦地の安全確認完了が通知された。先生も、研究メンバーも、私も足が早まるのが抑えられない。引率もスポークスマンも放り出して、ほぼ走るみたいに山を登った。作戦地の前で隊員投げつけるようにIDカードを見せると、山の中腹に拓かれた作戦地を一望する。

 壮観、圧倒!作戦地は、足の踏み場もないほどのギャオスの死体で溢れていた。

 凄い頭数、私の今までの実地で断トツだ!ハグレや分割コロニーじゃない、コロニー全体が全滅してる可能性がある!

 ほかの研究メンバーも先生も私も駆け出した。無数に転がる死体の周りを飛び跳ねながら、確認タグフラッグを地面に突き刺して進む。普通の実地検分なら両手で数えるほどのギャオスが取れるだけだから、淡々と個体識別して写真撮ってサンプル取って終わりだったけど、今はそんな暇はない!アレを、アレを見つけないと!

 遅れを取った取材陣も、体力と気力のあるメンバーが作戦地に顔を出し始めた。堀内が独り真っ青な顔しながら追いついてきたけど、もう気にする必要はないかな。防毒マスク越しの登山だ、一般人にはキツいはず。何とか近づいてくると一言

T2は……、T2薬餌は?」

「ああ、先生が足で踏んでるゼリーがそうですよ」

 堀内は反射的に足を跳ね上げて、弾みでバランスを崩して腐乱死体に倒れこんだ。

 

 一九九九年の第三次衝突後に大量発生したGH相とギャオスコロニーを駆除するため、政府は国民の遺体の臓器と髄液を原則的に徴収できるよう法整備して、それらを製薬会社国内大手のChinzey が試験開発した毒薬、仮称コード『T2』と混合して毒罠とし、それを用いてギャオスを大量毒殺する作戦、通称T2作戦を立案した。T2薬餌は、史上最も非人道的な作戦の中枢、そしてそれを包む堀内が踏みつけたゼリーは、まさに国民の血肉そのものだ。

 まあ踏みつけちゃうのも判るけど、政治家としては未熟だね。

 T2薬餌は黄色っぽい半透明のゲル状で無臭。背景とは裏腹に見た目には禍々しさなんてかけらもない。臓器や血の色が見て取れるとでも思ったか。死の匂いを一方で覆い隠し他方でアピールして、人民を操作するのは政治家の十八番なのに。

 

 リタイヤした堀内は放っておいて飛び交うハエの中を走り回っていると、ふと足が止まった。勝手に止まった気がしたけど、後から思考が追い付いてきた。目の前にある死体が明らかに他と違う。

 

 飛行に不釣り合いな巨大な身体と小さな翼、くすんだ白に黒いまだら模様の皮膚。あああどうしよう。間違いない、どう見たって間違いないよ!

 

 わけわかんなくなって、私は絶叫した。

 研究メンバーが寄ってきたころにはもう涙があふれていて、皆で叫んで防毒マスクをガチガチぶつけながらハグをした。騒ぎが落ち着いたころ、多田さんがフラフラと歩み寄ってきた。

 

「これは、オス個体です!コロニーの中心ですゥ!」

 聞かれもしないのに涙と鼻水を放出して絶叫するスポークスマンに、多田さんは難しい顔をした。

「至急本部に連絡して、追加作戦を立案してもらいます!冷山、唐沢鉱泉、その付近の山道と水源が、取り戻せるかもしれませェん!」

 防毒ゴーグル越しの顔が、今度はパッと華やいで、私の両手をグッと握りしめた。

「ありがとう!ありがとう……」なかなか多田さんは手を放してくれなくて、耳の辺りがさっきよりもカーッと熱くなっていくのがわかった。

 

 目のやり場に困りながらまごまごしてると、少し先に先生の姿が見えた。

 武藤さんに一礼してから、おめでとうございます!と声をかけたけど、「ご苦労様。調査が長くなるから、議員さんも記者さんも集合させてリフト乗り場で解散させてちょうだい」といつもの調子だ。なーんだ、そんな感じ?つまんないの。

 

 興ざめしたせいか返事も機械的になって、個体識別用の端末を取りに向かった。すると「真琴ちゃん!」打って変わったトーンで小さく囁かれた。パッと振り向くと

 

「イエーイ、やったね!」

 抑えた声に記者に隠れるようなグッドサインを添えて笑顔が弾けた。

 

 ああ、やっぱり長峰先生は笑ってる時が一番素敵!