歴史のない日本人象   

 

             ――敗北者たちの姿見――

              1868~1945

 

 

 

 

        

 

               日本海海戦(Ⅱ)  

 

 

     天皇はこう言った。

 「やっと、……新兵器について語る時が来ましたね」

 思わず漏らした言葉だろう。

  その言葉には天皇の正直な笑顔が付随していた。

 相変わらずの静かな微笑であったが、言葉は力強い明るさを放った。

 三人は顔を見合わせた。

 天皇は語り始めた…

 「実は、新兵器とは<砲弾>のことです。

 大砲に込めるあの砲弾ですね。

 ――他は無い、……ありません」

 「砲弾ですか!?」

 思わず秋草が声を上げた.

 おそらく自分のイメージとは違っていたのだろう。

 天皇は頷いた。

 「それは日露両軍を眺めていえること。

 艦船にも、その装備にも、またその性能でも、両者に特に違ったところは見

 られません。 

 例えば速度についていうなら、どちらにも早いものがあれば遅いものもあっ

 た。

 数は別にしますがね。

 確かに、すでに述べたように、それを反映しているその構成には違いはあり

 ました…

 ただそれは、戦況を一変させるというか決定的な結果を出すようなそんなも

 のではありませんでした。

 もし違いがあるとすれば、――まさにそれ!」

 

 

 

 

  天皇は次に砲弾の違いについて語り始めた。

 それは日本独自の鍛鋼榴弾であったという。

 「大砲が砲弾を打ち出す時、打ち出すための火薬を使う。

 これを装薬と言う。

 日露戦争当時日本でそれに使用されたものは無煙火薬であった。

 日清戦争時の黒色火薬に代えて英国製のそれを使った。

 一方、砲弾の中にも火薬が使われているのだが、それは装薬とはまったく別

 ものであり炸薬と言われている。

 ロシアはこれが相変わらずの黒色火薬であったのに対して、日本ではこれが

 黄色火薬に変わっていた。

 日本はここに純粋ピクリン酸である下瀬火薬というものを使ったのです。

 これが劇的成果の一因となった。 

 この炸薬の使用こそが今話題の新兵器を構成する重大要因、二つの内の一つ

 なのです。

 もう一つは信管。

 砲弾はこれあって炸裂します。

 ロシアのそれは、それまで知られていた平凡なものであったのに、日本はこ

 の信管部に非常に鋭敏な伊集院信管を採用した。

 よってこの新型火薬と新型信管の採用が日本側の新機軸となっていたのです。

 つまりこれによって、この時の日本海軍の砲弾は世界初の、それこそそれま

 で誰も見たことのない強烈な威力を放つ新型砲弾となったのである」

 

 

 

 

  続いて天皇は、下瀬火薬と黒色火薬の違いについて述べた。

 その語るところは以下の通りだった。

 日本製新火薬は下瀬火薬と呼ばれた。

 日本の艦船はこれを装備していた。

 対するロシアはまだ黒色火薬の世界なのであった。


 黒色火薬 × 75倍 =               下瀬火薬
 黒色火薬 ×  2倍 =  綿花火薬
               綿花火薬 × 30倍 = 下瀬火薬

 

 艦載砲の砲弾に充填された下瀬火薬は炸裂の瞬間、弾殻を3000以上の破片に

 し被害を増大させた。
 弾薬が気化したガスの温度は3000度以上であったと言われる。

 したがってその破片は当然どろどろの火の塊となった。

 これによって銅板に塗ったペンキはアルコールの如く引火し船に火災を引き

 起こし、相手の戦闘能力を失わせた。
 特に日本海海戦時は補給不可の現状であったから、敵艦の甲板には山のごと

 くに石炭が積み上げられていたであろうから、これが一瞬のうちに燃え上が

 り、猛火に包まれたその艦は瞬く間に戦力を失ったと考えられる。

 

 

 

 

  また信管についても述べた。

 この新砲弾には新信管が採用されていた。

 これは伊集院信管と呼ばれた。

 これはすこしの衝撃でも、敏感に作動するのだった。
 その鋭敏さはまさしく抜群であった。
 砲弾は海面に落下しても、またマストに張られた綱に当たっただけでも爆発

 した。

   つまりこれは<超即働信管>であった。

 そもそも艦砲の射撃は難しい。

 相手の艦は動いており、こちらの艦も動き揺れるからだ。

 ほとんどが当たらないといっても過言ではない。

 だが、この信管の登場によって日本側の有効性は格段に増加した。

 これによってまぐれ当たりが増え、相手にとってはそれが致命傷となったの

 だ。

 

 

 

 

  新型火薬は1885年には出現していた。

 日本よりも早くフランス人のE・テュルパンが爆発性を持つが不安定な物質

 であるピクリン酸を、砲弾の炸薬用に開発そして実用化に成功していた。
 これを彼はメニリットと名付けた。

 後に関係者がこれを日本に売り込みに来ている。

 ただ詳細は国家機密であった。

 が、交渉人が爪の間に刷り込んで持ち帰った僅かなサンプルから、それはす

 でに開発に成功していたわが国の下瀬火薬と同じものであることが判明した。

 そこで日本は下瀬火薬に賭けることになった。

 独自開発の下瀬火薬も同じピクリン系であったからだ。

 日本側は大いに自信を持ったことだろう。

 ただ、同系であるだけに両者は同じ難点を持っていることは明らかだった。

 実際の使用に当たっては、それがこの火薬の重大な欠点となるのだった。

 それによって当然ながら本当の実用化は双方まだ先のことであった。

 そのため日本は、下瀬火薬の実用化に全力を挙げることになった。

 この火薬には金属に対する過敏性があった。

 これは重金属と化合して非常に鋭敏なピクリン酸塩をつくる。

 問題はこれが衝撃や摩擦に対する感度が非常に高いことだった。

 発射の際の加速度により、砲弾内の炸薬が砲身内で爆発し砲身を破壊すると

 いう腔発(こうはつ)現象を起こす可能性が高かった。

 この問題を解決しない限りその使用は非常に危険極まりないものであった。
 

 

 

 

  天皇は二人の男について語った。

 「下瀬雅允(まさちか)は広島県鉄砲町の生まれである。

 父は広島藩士であり鉄砲役であったという。

 所はその名にふさわしく周りには鉄砲職人が多かったという。

 職場には一切近づけなかったというが、小さい頃からその雰囲気の中で育っ

 たためかそれに非常に興味を持ったそうだ。

   何やら宿命じみておるな、後のことを考えると…

 やがて彼は広島英語学校・工科大学応用化学科を出て内閣印刷局に就職した。

 そこでは紙幣用インクでいくつかの発明をしている。

 やがて科学者としての才能を認められたのだろう、1887年には海軍に移り海

 軍技手となった。

 そして時勢の要請で、赤羽火薬製造所で火薬研究に専念することとなった。
 爆発事故で左手を火傷、手指屈伸の自由を失うということもあったが、彼は

 それに屈することなく下瀬火薬の開発に成功した。
 それは製造所に移ってほどなくであったという。

 私的に開発を志してから僅か1年半のことであった。

 ただ実用に供するにはまだまだ問題があり、その欠点を修正するのに長い時

 間を要した。

 そしてそれから6年後下瀬はついに難点を克服した。  

 

 

 

         
  難題は砲身を破壊する腔発現象をいかにして回避するかだった。

 超敏感なピクリン酸をいったいどうやって制御するかであった。 

 下瀬はそれを予想もつかないアイデアで乗り切ったのだ。

 無いものねだりをしても仕方がない。

 あるものを活かす。

 彼は日本にしかない特産物で国家の危機を解決した。

 なんと下瀬は漆(うるし)を使ったのである!

 彼は砲弾内部に漆をコーティングすることで、ピクリン酸が金属に触れるこ

 とを防いだ。

 さらには炸薬を紙筒の中に入れることで、より純度の高いピクリン酸を炸薬

 とすることに成功したのであった。 

 なんとまぁ日本人らしいアイデアか!

 さすがに外国人は真似できまい。
 こうして1893年世界に先駆けてついに下瀬火薬は完成した。

 この功績により下瀬雅允は海軍技任に昇任、また工学博士の学位を受けた。

 

 

 

 

  この下瀬火薬を更に活かそうという天才が現れた。

 当時日本帝国海軍軍令部次長であった伊集院五郎である。 

 彼は薩摩藩士の子として生まれ、若い時に西南戦争に参戦したという経歴を

 持っている。

 日露戦後彼が行った「月月火水木金金」の猛訓練は有名であり、軍歌にその

 名を遺した。

 伊集院五郎は下瀬火薬の素晴らしさに感嘆した。

 だが、彼はすぐにそれだけでは十分ではないことに気づいた。

 と言うよりは、それをもっともっと生かしたいと考えたのだった。

 そしてこの<最強の火薬>の威力・優れた反応性を最大限に活かすためには、

 より反応感度の良い「信管」が必要なことに思い至った。

 こうして彼は伊集院信管という、特殊な信管を開発した。
 この信管の特徴は、砲弾を発射すると勝手に安全装置が外れてくれることで

 あった。

 装填前に安全装置を解除する手順が不要になり装填作業がより簡単になった。

 この信管のおかげで、日本軍は世界最強の火薬をより安全で簡単に扱えるよ

 うになったのである。

 この功績により、後に伊集院は日本海海戦勝利の影の功労者と言われるよう

 になった」

 

 

 


  天皇はゆっくりと腰を下ろした。
 そして無言で三人をしばらく眺めていた。

 やがてその視線は傍らにある鈴に向けられた。 

 錦の敷物の上にあるかなり古風な鈴は、黒光りする巨大な机の片隅で、随分

 と辛抱強くいつかはあるであろう出番を待っていた。

 どんな会話が成り立ったか小さく頷くと天皇は、片手を伸ばしてその鈴を手

 にとった。

 ほんのわずかな間天皇は眉を上げ虚空に視線を留めていたが、静かにそして

 ゆったりと明らかに何かを憚る気配で鈴を一振りしさらにもう一振りした。

 それはそれほど大きな音ではなかった。

 が、部屋によく響いた。
 突然それを待っていたかのように勢いよくドアが呼応した。 

 そして一人の男がポッカリと開いた口の中に姿を現した。

 彼は大急ぎでまっすぐに天皇に向かってくる。
 身を少しかがめた姿勢で近づいてくるのは先ほどの侍従であった。

 彼は天皇の前でさらにもう一段身を低くしその耳をさい出した。

 天皇は一言二言ボソボソと何かつぶやいている。

 侍従は頷くとすぐさま取って返した。

 代わって二人の侍従が現れた。

 一人は大きな巻物風の一抱えはあるものを抱いていた。

 もう一人は根元に三つ足がくっついた長いポール状のものを運んできた。
 やがて机からやや離れた場所に大きな地図が掲げられた。

 それは地図と言うよりは見取り図と言った方がいいものであった。

 それが日本海海戦の戦場を示すものであることを三人はすぐに見て取った。

 だから一番下は日本列島であった。

 上からは朝鮮半島が突き出している。

 そしてその中ほどに、やや朝鮮半島寄りに壱岐・対馬島が描かれていた。

 右上、壱岐・対馬島からだいぶ離れたところに鬱陵島が描かれていた…




  再び天皇が立ち上がった。

 天皇は言う。

 「もう一つ話しておきたいことがある。

 …… ……
 実は、日本にはもう一つ新兵器があったのだ…」

 「新兵器が…!?

   まだあったのですか、日本には?」

 三人は首を傾げている。

 兵器というからにはそれは当然武器であろう。

 が、誰にも心当たりはないのであった。

 首をひねって確かめるように三人はお互いの顔を見つめ合った。

 誰もが首を振った。

 天皇は、

 「新兵器と言うにはちと語弊があるかもしれないな。

 ただな、結果に与えたその影響を考えると、そう評価してもあながち間違い

 とは言えないのだ」

 と言う。

 こらえかねた秋草がせっかちに天皇に尋ねた。

 「陛下、それはいったいなんでございましょうか?」

 天皇は笑っている。

 そしてこう明かすのだった。

 「通信機だよ…

 新型の通信機だ、丸三式通信機だ!!」

 「ええっ!?

 通信機が…」

 混乱はとっさには収拾がつかない。

 ――三人は完全にはぐらかされた。

 三人の顔はキツネにつままれた顔であった…