藤村操のブログ

藤村操のブログ

誰だって、極度の自信家や虚栄心の塊でない限り、

人に恥ずかしいと思う自分の言行の記憶をもつはずです。

藤村操は、わずかに遺した高邁な思想的断片とは裏腹に、

スノブでした。ぼくはそこに、自身を見た気がします。

悠々たる哉天壤、


遼々たる哉古今、


五尺の小躯を以て比大をはからむとす、


ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ、


萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。


我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。


既に巌頭に立つに及んで、


胸中何等の不安あるなし。


始めて知る、


大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

Amebaでブログを始めよう!

村上世彰氏が通商産業省を退官した1999年、改正商法によって、日本

にも「株式交換」制度が創設されました。すなわち、企業買収に際し

て、買収対象企業の発行済株式と自社の新株式を交換する方法が認め

られるようになった、ということです。分かりやすくいいますと、そ

れまで買収者は、買収対象企業の発行済株式を現金で買い取らなけれ

ばなりませんでしたが、現金のかわりに当該企業株主に相当の自社株

式をあてがうことで、買収が成立するようになった、ということです。

本制度導入によって、買収者は、買収のための巨額の資金(キャッシ

ュ)が必要なくなりましたし、従来型の吸収合併よりも手続きが簡便

で、買収後の機動的経営が可能(法人として一応別人格ですので、い

ざとなれば、買収先を丸ごと売り飛ばすこともできます。)となりま

した。そして、この「株式交換」の際にきわめて重要となってまいり

ますのが、交換比率の算定でして、さらに比率算定のファクターとし

て、最重視されるのが「市場株価」です。このことが、先に述べまし

た「オーナー経営者にとっての恩恵」と関係があります。


株式交換による企業買収における「交換比率」は、合併時の合併比率

にも喩えられる重要事項であって、買収側、被買収側双方の株主の利

害に大きな影響を与えるものですから、買収の成否自体が、この比率

に関する事前の交渉、協議、合意形成の経過に係っていると言って過

言ではありません。そして、この重要なプロセスにおいて、わけて重

視されるのが「市場株価」でして、一般にこれが交換比率算定の最大

の基礎とされているのです。いわゆる「市場株価平均法」ですとか、

「市場株価基準法」と言われる手法ですが、ようするに不特定多数の

投資家が参加する公開市場において、自由売買によって形成された両

者の株価、つまり時価の比較でもって交換比率を定めるというもので

す。もちろん、他の要素も加味するケースがほとんどですが、こちら

は補正的意味合いであることが多いのではないでしょうか。何しろ、

「市場株価」こそが、企業の財務状況、事業計画、経営、将来性およ

び業績等すべての要素が反映された結果であり、企業価値の客観的、

定量的な評価であるという、一種の信仰から出発した演繹的思考です。


そして、この最もポピュラーな手法による交換比率算定こそが、ひい

ては「オーナー経営者にとっての恩恵」に他なりません。同時に、俗

に言われる「時価総額(至上)主義」の背景ともなっています。オー

ナー経営者は、読んで字のごとく、まさに同じ主体でありながら、オ

ーナー(株主)としての性格と経営者としての性格をあわせもってお

り、この二面性がどこの何某という自然人の内に合一され、そこから

発する意思にしたがってふるまうわけですから、どちらの側面が強調

されるか、またどのような行動を選択するか、については、株主だの

経営者だのという衣装を脱ぎ去った一個人のキャラクターに、相当程

度、依存せざるをえません。村上氏らが喧伝した、コーポレート・ガ

バナンスの問題とも係わりますが、建前はともかく現実社会において

は、かならずしも利害が一致しない立場、株主と経営者とを、一個の

人格であるオーナー経営者が兼務するわけですから、会社は意思決定

が容易です。すなわち、経営者に対する株主によるけん制、というも

のがありえないからです。悪く言えば、すべての局面で、オーナー経

営者によるご都合主義が幅を利かせる結果ともなりかねないわけです

が、まさにこれぞ「オーナー経営者にとっての恩恵」なのです。


株式交換制度の導入によって、M&Aが以前とくらべて容易になったわ

けですが、市場株価によって算定した自社株をお金の代わりにして、

他企業を買収できるということは、時価総額が高ければ高いほどM&A

がしやすくなる、ということを意味します。すなわち、自己株式の市

場株価が高ければ高いほど、経営者は、他企業を買収、支配するチャ

ンスを多く得て、さらに大きな経営権(権力)を獲得することができ

る、ということです。一方で「株主価値」向上という耳心地よい言葉

で仮装し、専ら自己株式の市場株価上昇を企業経営の目的とするよう

な経営者が現出したのは、このためです。そして、実質はどうあれ経

営者が実際にM&Aを実行しますと、一般的に市場はこれを好材料とし

て反応しますので、自己株式の市場価格はさらに上昇し、時価総額が

なおいっそう増大することになります。当然、これを背景とし、経営

者はなおさらに企業買収が容易となるわけで、こうした連鎖を際限な

くくり返してゆく誘惑に駆られるのは、無理からぬことのように思わ

れます。そして、経営者が株主でもあれば、そもそも株主と経営者の

緊張関係はなく、まさにご都合主義によって、経営者の飽くことのな

い、この権力志向をけん制する機能は働く余地がありません。


こうしてオーナー経営者が支配する企業(以下、「オーナー企業」)

にあっては、たとえば、経営者が大きな権力を追求するがあまり、無

謀なM&Aや、きわめてハイリスクな資金調達を企んだり、あるいは中

長期的なヴィジョンや、いわゆる企業の社会的責任(CSR)に対する

自覚が欠落した経営計画を立案したり、さらにはコンプライアンスの

面から問題がありそうな行動に出ようとした時、これらを思いとどま

らせる力が働きません。もちろん、これが小規模な個人商店であれば、

やむをえない面もあるかも知れません。しかし、利害関係人(ステー

クホルダー)がきわめて多岐に渡り、多数となる上場企業においては、

時にこの偏向的力学が、社会問題を引き起こすことともなりえます。

そして、オーナー企業におけるこの力学に対し、先の株式交換、交換

比率算定、時価総額主義は重大な影響をおよぼし、結果的に、しばし

ば一企業の問題を超える大問題を社会に出来させます。


「市場株価」が先に述べましたように、財務状況、事業計画、経

営、将来性および業績等、企業のすべての要素を反映し、客観性

を有した価格である以上は、あるいはその限りにおいて、市場株

価から当該企業の実体、企業価値が推認されます。因果関係から言い

ますと、当然、先に財務、事業計画、経営等の企業実体があって

こそ、市場株価が形成されるべきですが、市場株価に対する信仰が存

在する限り、この転倒とでも言うべき現象が起こります。すなわち、

市場株価、ひいて時価総額の大きな企業ほど、企業価値が高い企業で

ある、というイメージ、共同幻想の一般化です。こうしたイメージが

普及することで、企業経営者はますます、自己株式の市場株価上昇だ

けに血道を上げるようになります。もっともっと、「流動性」とやら

を高めよう、そして売買を盛んにし、市場に絶えず(M&A等)話題性

を提供し、そうして上昇した株価を背景に、さらにスケールの大きい

M&Aを手がけよう、ということになります。いつしか経営者の視野に

売上高や営業利益(≠経常利益)などは後方に退き、市場株価(株

式時価総額)が前面に躍り出ます。


もちろん、オーナー企業でなくとも、CSRを度外視したM&Aの多用

時価総額主義を手放しで礼賛する、「強欲で浮気な」株主ばかりによ

って所有された企業であれば、株主と経営者との間の本質的な利害対

立等はそもそも少ないかも知れず、ひとり「オーナー経営者にとって

の恩恵」とは言われないかも知れませんが、往々に株主が強欲で浮気

であればあるほど、両者のコンセンサス形成は困難であり、M&Aの規

模や対象、タイミング等に関する意思決定が常にスピーディーにおこ

なわれるとは限らないでしょう。この点、オーナー企業であれば、こ

れがスムースにおこなわれ、同時に、目論見どおりに事が進む限りに

おいて、オーナー経営者は経営者の立場として、他の既存株主に、譲

渡益や配当という形で目に見える利益をもたらすことができます。そ

してこのことが、オーナー経営者の経営者としての立場をいっそう強

いものとするとともに、さらなる株価上昇、そして時価総額主義に拍

車をかけることになるのです。


さて、果たして、こうしたことをもたらす「流動性」とやらは、本当

に堀江氏が言うように、社会にとって最重要と言えるでしょうか。他

のあらゆる弊害を看過してまでもこれを維持し、また政策上、他に優

越して配慮されるべきものと言えるでしょうか。株式に限りません。

いわゆる「証券化」(Securitization)によって多様化した各種債権

についても、これは同じです。直接金融の普及、一般化にともない、

近年では土地や建物までもが証券化され、いわゆる「不動産証券化」

などという現象まで起こっています。たとえば、これも米国の対日圧

力によって実現したと言われるREIT(リート)と呼ばれる不動産投資

信託、またMBSと呼ばれる、不動産を担保とした融資債権を裏づけと

するモーゲージバック証券等です。かのサブプライムローン も、ま

さしくこの高い流動性を売りにしたMBSという仕組みを通じて、世界

中を恐慌に陥れたわけです。


多額の金を稼げる職業こそ、「付加価値」の高い職業なのだとします

と、堀江氏が社会的機能なりと称する「流動性」、しかも実物経済を

揺るがすほどの過剰な「流動性」によって支えられた、グローバルな

賭場でおこなわれるゼロサムゲームに投ぜられる金から、胴元の立場

としてであれ、ゲームの勝利者、その金主の立場としてであれ、何ら

生産活動をせず、「搾取」(アイロニーではなく)する人たちこそ、

タクシードライバーやライン労働者のような人たちよりも、よほど高

い「付加価値」を生むことになるのでしょう。また、一般労働者より

賭博者の方が、付加価値の高い労働の提供者ということにもなりまし

ょう。無知な人たちを食い物にする商品先物取引業者や消費者金融、

信販会社、サブプライムローンのような不良債権を世界中にばらまい

た金融機関とこれに誤った評価を与えた格付会社、こういうものに携

わる人間が、ただタクシードライバーやライン労働者よりも高給を得

ているという一事でもって、後者より「付加価値」が高いと評され、

後者はこれを低いと蔑まれ、3人の子どもを育てることさえ断念させ

られてしまうのです。


堀江氏は、このような価値観、経済社会観を可能ならしめる「流動性」

とやらを最も大事と唱え、この維持のための投機的行為すら、重要な

社会的機能、立派な役割と断じますが、いったいどのような意味で

「流動性」なる言葉が用いられ、またどのような意義を評価し、これ

を最も大事と言っているのか、定かではありません。ただ、その一連

の発言から、かれ自身が、そこから濡れ手に粟の大もうけをした株式

市場において、株取引が盛んな状態を、どうやら流動性が高いと考え

ているらしいこと、そしてこの流動性を高めるための努力をしたと、

誇らしげに語っているところを見ますと、これが高ければ高いほど、

経済社会にとってはよいことなのだ、と考えているらしいこと、だけ

は分かります。しかし、はたして本当にそうなのでしょうか。


ところで、ではその「流動性」とやらは、いったい何なのかと言いま

すと、堀江氏のような人が大仰に述べると、何やらごたいそうなもの

にも聞こえますが、ようするに、貨幣、つまりお金と同義と言えます。

物の本によりますと、お金の「流動性」という性質に着目し、これを

初めて経済理論として述べた人は、いわゆる「オーストリー学派」の

祖であるカール・メンガー(Carl Mengerらしいですが、かれは、

それまでお金が単なる交換の媒介物、商品の交換ツールとしてだけ扱

われてきたのに対し、Absatzfähigkeit(「販売能力」「販売可能

性」などと訳されます。)という概念を用いて、お金のもつ「市場通

用性」という属性を強調しました。換言しますと、市場において、他

の商品との交換が最も容易な商品こそがお金(貨幣)だということを

観察し、この特性を称し「販売能力」「販売可能性」と呼んだわけで

すが、これこそ、後世のいわゆる「流動性」概念に他なりません。

藤村操のブログ-メンガー
(カール・メンガー
1840.2 – 1921.2


ぼくたちが、市場を通じていつでも、自分の望む物を入手することが

できるのは、「お金」を持っているからであって、物々交換の世界で

は、そのために多大な苦労と時間を費やすことを強いられた、自分の

物と引き換えに他人の物を入手する、ということを容易に、しかも速

やかにできるのは、一重に「お金」がもつ「流動性」という性質のお

かげと言うことができます。特定の商品を10万円分か10万円の現金

か、どちらをもつことを好むか、と問われれば、おそらく誰もが後者

を選択するのではないでしょうか。両者がもつ価値は同じはずですが、

どうしてそうなるかと言えば、これぞまさに「流動性」の程度の差に

よるというわけです。一方は、いつ何時でも、どんな商品にも換えら

れますが、他方は、自分の望むタイミングで交換相手を探し、価値ど

おりの値段で売却することは、きわめて困難です。すなわち、「流動

性」とは決済力であり、交換可能性であると言えます。


では、この「流動性」を高める、ということはどういうことか、堀江

氏をして最重要と言わしめる「売りたいときに売れて、買いたいとき

に買える」とは、どういうことなのかを考えてみます。かれは、専ら

株式市場を念頭に発言しているようですが、株式の「流動性」という

とき、これは単に「売買の容易さ」というほどの意味で使われている

ようです。すなわち、買いたいだけの株式数の売り手を、いつでも株

式市場で見つけることができ、逆にこれを換金したいと思ったときに、

いつでもそこに買い手が見つかる、という状態を、「流動性」が高い

というそうです。この程度を定量的に表すメルクマールとして、いわ

ゆる「売買高」(市場での取引量)や「浮動株」(特定株主によって

長期保有されることなく、投機目的で頻繁に売買される株式)などが

あり、これらの数値が高ければ高いほど、その銘柄は、市場での売買

が成立しやすく、交換可能性が担保されている、すなわち「流動性」

が高い株、としてトレーダに評価されるわけです。


堀江氏は、この「流動性」を高めるために、株式の100分割を実行し

た、と胸を張ります。実際、かつてかれは、ライブドアの株式を3年

のあいだに、合計4回に渡って30,000分割し、子会社のバリューク

リックジャパン(現株式会社メディアイノベーション)の株式も、

100分割しましたが、この目的は「流動性と個人投資家の利便性向上

のため」だ、と言うわけです。ここでは話を簡単化してしまいますが、

株式を100分割する、ということは、ようするに1株あたり100万円で

売買されていた株式であれば、これを1/1001万円でも売買できる

ようにする、ということに過ぎません。そして、このように従来の1

株の1/100をもって1株という風に分割(変更)する場合、既存株主

は、分割後には当然として、100株を所有しなければ間尺に合いませ

ん。(1株を100万円で購入したのに、分割後の1株(1万円)所有者

にされてしまっては、ただ資産を1/100に減らされてしまうのと同じ

だからです。) したがって、今回のケースで言いますと、分割前の

1株所有者には、分割後、新株100株が割り当てられます。さて、こ

れがいったい、どのような効果をもつか。


理論上は、分割によって、企業価値や株式の取引価格が変わるはずは

ありません。1株×100万円と100株×1万円とは、イーコールだから

です。つまり、分割を原因として、株式時価総額(株価×発行済株式

数)が変わるはずはありませんし、株式の所有比率に異同もないはず

です。しかし、現実の株式分割には、より多くの投資家の購入機会を

創造することによって、株式市場における需要を高める傾向がありま

す。言い換えますと、それまで100万円を用意しないと買えなかった

株式を、10万円、20万円しかもたない小口投資家も買えるようにな

るわけですから、諸条件に変更がないものとしますと、株式市場にお

ける需要は、高まりこそすれ、低下する理屈がないように思えるから

です。もちろん、需要が増加すれば、単純な価格メカニズムによる株

価上昇の要因となりえましょうし、それ以上に、市場心理に上昇イ

メージを描き、さらなる需要を呼び、相乗効果を生むこともありえ

ましょう。同時に、世間の話題と注目を集めることによって、その

効果が増幅されることも期待されます。


こうした作用が働くようになりますと、たしかに「流動性」=「売買

の容易さ」とやらが高まり、売買が盛んになるかも知れません。しか

し、それはいったい、誰にとってよいことなのでしょう。誰にとって

一番大事なことなのでしょう。たとえば、ライブドアという一企業、

バリュークリックジャパンという一企業の株式の「流動性」が高まる

ことによって、株式投資と無関係の一般市民が、何らか恩恵に与るこ

とは考えられません。これらの企業株式を購入したいと、かねて思っ

ていたけれど高すぎて買えなかった人、あるいは取引単位あたり株価

の大きさから投資戦略上、投資を思いとどまっていた人にとっては、

好都合かも知れません。しかし、このような効果はきわめて限定的で

すから、胸を張っていばるようなことではありません。では、いった

い他の誰にとって、と、思いつくのは、株式の売買によって差益を得

ようとする既存株主にとっては、ということだけです。


あたりまえの話ですが、株価が上昇すれば、既存株主には含み益が発

生することになります。そこで売却してしまえば、いわゆる「キャピ

タル・ゲイン」が得られます。たしかに、かれらにとってよいことで

す。しかし、このことをもって「流動性」を高めることが一般的に最

重要、とはとても言えないでしょう。ところで、既存株主は二種に大

別され、1つは株式市場において株式を購入した一般株主ですが、よ

り重要なもう1つの株主として、いわゆるオーナー経営者(上場以前

からの株主=経営者)があります。この存在は、いわば所有と経営が

未分離の状態にあることを示しておりますが、当然、このオーナー経

営者も一般株主同様、株主として株価上昇の恩恵に浴する権利をもっ

ています。しかも、一般株主とは所有株式のスケールが違いますので、

これとは桁違いの恩恵に与ることができるでしょう。さらに!オーナ

ー経営者にとっての恩恵は、じつはこれだけではないのです。

「価値」とは何か、この問いを横に措いては、他人の労働に対して

「付加価値が低い」の、「付加価値が高い」のと言ってみたところで、

それこそノンセンスであり、寝ごとにも等しいものです。それはあた

かも、方位も分からずに、西だ東だと騒ぎたてる船頭さながらです。

ようするに堀江氏は、もっともらしいことを言っても、つまるところ、

カネの多い少ないでしか「富」なるものをイメージできず、また「価

値」とカネとを同一視することによってしか経済、社会の実体を捉え

られ(た気にすらなれ)ない程度の知性、狭窄した視野以上もちあわ

せてはいないのです。はしなくも、かれ自身によるつぎの言葉が、こ

のことを露呈しています。曰く、「子供を3人つくるなら、悪いこと

は言わないがタクシー運転手で奥さん専業主婦だと先行きは暗い。

っと稼げる付加価値が高い商売に就業しないといけない。それを自

己認識することが大切だ。」


「(カネを)稼げる」=「付加価値が高い」という、かれのきわめて

シンプル、かつ皮相な発想が、これでよくお分かりになると思います。

自分は拝金主義者と誤解されている、「大事なのは収入の多寡ではな

く人生を楽しく生きれるかどうか」だと大仰に述べる、その同じ人間

の口から出た名言、まさに「問うに落ちず、語るに落ちた」、という

印象です。かれはまた、「デイトレーダーに対して投機だとかギャ

ンブルだとか非難するやつらがいるが、彼らの機能として流動性

を作り上げていることは評価せねばなるまい。売りたいときに売

れる、買いたいときに買えるというのが一番大事なわけだ。そういう

意味でデイトレーダーには立派な役割がある」などとも言いますが、

この発言も、かれの「付加価値」概念を裏づけていると言えます。


価値を単に「カネ」と見なし、このカネが得られる職業イーコール付

加価値の高い商売、という、かれの単純直裁な持論を追求すれば、常

設賭場の開帳に貢献し、途方もない「カネ」を得るチャンスと、その

数百、数千倍もの無一文者となるチャンスをつねに提供しつづける、

無数の賭博者によるベットは歓迎こそすれ、非難すべき対象となりえ

ません。実際、かれの「富」の源泉はそこにあったのであり、「ネッ

トバブルの時に株式上場」したことこそが原点でした。ですから、ま

かれ自身にとって、そしてかれのような考えに同調する者にとっ

ては、デイトレーダーや相場師の類が理に適った実践的ライフスタイ

ル、付加価値の高い職業、となるのは道理であって、METIトップの

目には「バカで無責任で堕落した」存在として映じた人たちが一転、

付加価値が高く社会的責任を果たす有用な人たち、となるわけです。


かれの言葉を読んでいると、ぼくは、マリー・アントワネット(Marie

Antoinette)にまつわる有名なエピソードを思い出します。悪政によ

って国中が貧困に陥り、日々のパンすら買えずに飢えた市民らを眺め、

その事態を招いた為政者に連なる身でありながら、「パンがなければ

ケーキを食べればいいのに。」とつぶやいた、という、あれです。こ

の発言はフィクションでしょうが、ぼくは、こと「カネ」に関する堀

江氏の発言について、これと同類の、バカがつくほどに無邪気で無責

任、腹が立つほどに無内容なそれであると感じるのです。かれは、市

場にはつねに自分の必要とする財やサービスが豊富に存在しており、

労働市場もまた同様で、これを当然の与件と考えています。そして同

時に、自覚していないかも知れませんが、「カネ」こそは価値であり、

これを多く得られる職業こそ付加価値が高いと信ずるがゆえに、所得

の大きな職業を求めない者を能力が低いと断じて軽侮し、より高額の

「カネ」を得られる職業に就く者、あるいは途方もない「カネ」を現

に得た者は、手放しで賛美します。


藤村操のブログ-マリー・アントワネット
(マリー・アントワネット
1755.11 – 1793.10


そこには、「社会」とか「モラル」という概念がまるで欠けているこ

とに気づきます。かれが当然の与件と考える、常に「自分の必要とす

る財やサービスが豊富に」市場に存在するそのこと、付加価値が低い

と決めつけて侮るライン労働やタクシードライバーの職に就く人たち

が、いつでも労働市場から容易に調達でき、間断なくそうしたサービ

スの担い手として供給されるということ、また他方、その担い手たち

にも生活があり、家族への愛があり、幸福や安らぎを求めて、誰かが

使用するための財やサービスを生むための労働を提供し、それによっ

てみずからもそこから応分の恩恵に与り、暮らしているということ、

こうした歴史的、社会的事実を、ただゲームのルールのごとく、歴史

や社会から切り取られ、単独で存在する一現象、一条件、モデルとし

か捉えられない感覚、そうした人間たちの数百、数千倍もの価値を自

分が生み出しているかのような錯覚、このあたりに、すでにかれの思

考の限界が露呈するのであり、ぼくにかの王妃を想起させるのです。


価値とは「カネ」、こんな程度の概念しかもっていないわけですから、

「付加価値」なんて言いますと何だかむつかしく聞こえますけれども、

ようするに、堀江用語で言えば、付加された「カネ」、「獲得した金」

という風に翻訳され得る概念に過ぎず、単に「もうけ」という程の意

味しかありません。ですから、かれが「タクシー運転手はグローバ

ルに見ればロンドンなどの一部の例外を除き、非常に付加価値の

低い職業である」などと偉そうに言うとき、タクシードライバーとい

う職業はもうけが少ない、という以上の何の意味ももたないわけです。

「価値」=「カネ」、つまりお金こそ「価値」であるという倒錯した

価値観をもつからこそ、このように言えるわけで、逆に言いますと、

実際に得ている「カネ」によって、その人のする仕事の価値が決まっ

てくる、と、こう言っているわけです。聞いている方が恥ずかしくな

るような手前みそで、まったくもって小児病的、豎子の考えです。


ところで、付加されるところの「カネ」=「もうけ」が「付加価値」

なのだとして、ではそもそも、かれは、この「カネ」=「もうけ」の

性質をどのように捉えているのでしょう。すなわち、「付加価値が高

い、低い」というからには、文理上、付加される前の何かの概念がな

ければ平仄が合いません。それを「コスト」と言おうが「生産費」と

言おうが、また「売上原価」でも、呼称は何でもかまいませんが、と

もかく「付加」すべき対象に関する概念が必要となります。これは専

ら、天然に存在する(魚や原始林や鉱石などのような)ものではない

でしょう。


労働には適正な対価がある。企業が儲かった内部留保を労働者

 に分配しろというのは、それこそマルクス・エンゲルスの時代

の論理であり、産業機械のコストやグローバル化による発展途

上国の人件費との競争になっていることを理解しないといけな

い。リスクもとらずたまたま儲かっている会社にいるから給料

一杯くれってのはどこかの高給を食んでいるテレビ局員のよう

だ。自分の手金をリスクをとって供給した株主配当に回される

のは当然の理だろう。


以上はかれ自身の言葉ですが、不明なぼくには、かれがいったい何を

しゃべっているのか、ほとんど理解ができません。産業機械(=労働

手段)による資本構成の変化や、グローバル化(外国貿易)による安

価な労働力の流入の、何を理解すると労働力の価値に関する「適正」

概念が否定されるのか。マルクスやエンゲルスの時代のどんな論理と、

現代におけるどんな論理とが、どう相違していると言っているのか。

また、何ゆえに労働者が得る所得が、冒すリスクと相関関係をもたな

ければならないのか、まるで分からないのです。しかし、先ほどの

「付加」すべき対象の問題に引きつけ、ここで一つだけ分かることが

あります。それは、かれが経済の問題を、きわめて表面的な流通過程

においてしか考えていない、ということです。


藤村操のブログ-マルクス
(カール・マルクス
1818.5 - 1883.3


まるでバカげた話ですが、付加価値、付加価値と言っている人に、

「付加」すべき対象に関する確かな概念が欠落している、という笑い

話です。経済法則を生産過程と流通過程の反復としては捉えず、ただ

ひたすら流通過程の連続と見ているからこそ、そこに現れる、可視的

で、手に触れられる商品(の価格)や「カネ」としてしか「価値」と

いうものが理解できない、だからこそ、流通過程の連鎖のなかで「カ

ネ」を増殖させることが、「付加価値」の高い労働である、という論

理の飛躍が生まれるのです。たとえば、「産業機械」です。かれはこ

れを、過去の労働の生産物とは捉えません。前後のコンテクストから

切断されてしまった流通過程に、とつぜんひょっこりと労働手段や原

料が姿を現した、そんなイメージで話をしているものですから、産業

機械も原料も、それらがすでに過去の労働によって濾過されていると

いうことは、いとも容易に捨象されてしまうわけです。


現在の姿が「カネ」であれ、「商品」であれ、はたまた「産業機械」

であれ、すべて資本の循環過程における具体的形態のひとつに過ぎま

せん。カネだの商品だの機械だの、これらはすべて、資本がまとう衣

服のようなものです。そうして、「付加価値」なる言葉が意味をもつ

のは、現在まとうその衣服がどのようなもので、どんな姿であれ、一

定の資本がもつ「価値」に対して「付加」された「価値」、すなわち

増殖した資本、と理解した場合だけです。この理解に立ってこそ、付

加価値が高い、低いと言うことが、既存の資本の価値が、何某かの

「労働」によってどれだけ増加した、という、その増加程度のことを

指すのだと、誰もが想像できるでしょう。これを「剰余価値」と言え

ば、堀江氏は、マルクス・エンゲルスの時代の妄言だと言うかも知れ

ません。また、私企業がその本性として追求すべき資本増殖、まさに

価値の付加が、「剰余労働」に依存している、などと言えば、あるい

は、あきれられてしまうかも知れません。ただ、いずれにしましても、

この意味以外で「付加価値」というとき、これはしっかりと定義をさ

れなければ、単なる主観的価値観に過ぎないと言えましょう。

藤村操のブログ-エンゲルス
(フリードリヒ・エンゲルス1820.11 – 1895.8