先日雲の中に控えめに隠れていた朝の月が今日は西方の空高く
くっきりと浮かび何処からでもその存在を目にするコトが出来ました。
飛行機雲の残骸か千切れた筋雲がまるで白いフェザーの様な形で
お月さんを遠巻に飾り、趣のある情景を演出しています。夏用の薄手
のウェアでは風が痛く感じるので、そろそろ厚めのモノに衣替えです。
ベンチが夜露で薄っすら湿っていて股関節ストレッチはお預けです。
遠くの景色は視覚に映り、近くの状況は指先の触覚で判断できます。
人の感覚で認識できる範囲は限られていて何億光年の彼方からの
映像は確かに届いてはいても電磁波望遠鏡で分析しなければ視る
コトは出来ません。近くの映像は間違いなく蠕いていても電子走査
顕微鏡で検出しなければ観察出来ません。遠くも近くもほんの一部
画像処理出来るだけで実際は殆ど未知の認識出来ない領域です。
人は識りたくて見たくて聴きたくて触りたくて解りたくて仕方のない
感覚に対して貪欲な存在です。何故でしょう?本当は何も知らずに
殆ど視るコトも出来ないくせに知ったかぶりで見てきたような気に
なるのが好きで、ややこしい数式を並べては勝った気になっている
そして時々絶対だとした定義が覆されたらハラリと身をかわし簡単に
無かったコトに出来るし、都合が悪ければ過去も改ざんする。
宇宙は平均すれば1㎡当たり水素原子一つしか無いほぼ真空です
とは言え無数の電磁波が飛び交い隣の宇宙と衝突や離反を繰り返す
事象の入口でもあります。コッチの宇宙に水素原子一つが生じるのと
同時にアッチの宇宙に反水素原子も同時に生まれます。2つが衝突
すれば対消滅を起し、原子をモノとして固定するエネルギーを開放し
量子力学で云う重なり状態、仏教で云う空の状態に戻ります。
色即是空。空即是色。これは仏教の初期のお経で般若心経の漢訳の
表現です。人の感覚を刺激する全ては実は空であり仮初の事象だ。
その逆も然りとあるのですが、これにはスリランカの国立大学で仏教
哲学の教鞭を採り流暢な日本語で伝道活動を通して衆人を啓蒙する
スマナサーラ長老が呆れて笑います。原始の般若心経には色即是空
はあっても空即是色なんてモノは無い!何でこんな文を足したのかと・・
サンスクリット語の原文を漢訳した人が善かれと考えて中国式の対文に
したのだろうけど・・犬は動物だと言っても何故動物が犬とイコールに
なるのだと・・蛇足な翻訳が経をややこしくし悟りから遠ざける。時代が
過ぎれば伝言ゲームのように最初の言葉は伝わりにくくなり訳が分から
なくなる宿命にあります。お釈迦様の説教は多言語を駆使した口伝で
あり入滅後は弟子が集まりお経に編纂し、何時しか禁止の偶像になる。
だから本当に伝えたかったコトは訳すコトが禁止されかなりの確度で音の
まま表現されています。きゃーてい~~~ぼじ~そわかのパートがそれで
ここだけ唱えれば般若心経はコト足りるのです。訳すなと云うのに訳したい
のが人と云うモノなのでどうしようもありません。ただ唱えればいいのです。
高く低く高く低くもっと高く低くそれでも高く低く~ついにぼじ(菩提のコトで
で意味付けは要らない最終目的地)に~ソワカは祝詞なので真言の括り。
陽陰陽陰。進んで戻ってまた進んで転んでも起きて失敗しても諦めず繰り
返し往復すれば何時かレーザー光線のように波長が整列し強烈な波動と
なりこの世の苦しみのしがらみから飛び出せて自在を得るのです・・・・・