人はこの世に生を受ける時、身体は父母より(正確には父母双方から遺伝子と言うプログラム)受け、精神(魂)は大宇宙の根源からほんの一粒の命を分けて貰い2つが一つに重なり人生を歩み出します。肉体と共にある時は2つで一つの命ですが魂が肉体を離れる時は意識だけの存在となり、純粋な波動エネルギーとなり謂わば神と同じです言い換えれば人は誰でも体の中に神を宿し一生をかけて一つの命としての経験を重ねる存在というコトになります。但し、神と言うからには信が条件となります。

 もし魂に信が備わらない場合、単に霊や霊魂と表現されます。神と成るためには最低条件として自らを信じて疑わない強い信念が必要です。そして自らを信じ数多くの信(信仰)を集めると。長い長い徳の積み重ねの後に神様に昇格し、神社に奉られたりもします。日本における神仏習合で仏を護る天というのは神のコトです。日本では元々土着の信仰対象として八百万の神々が祀られて来ましたがインド発祥の仏教は伝来と共に現世御利益を否定しないヒンズーの神々と一緒に渡来しました。

 仏陀(お釈迦様)は覚醒めた人であり、真理を悟った人であり、精神的には煩悩から解脱しましたがその肉体と共に在った時はあくまで人だったのです。人としての病の苦痛に耐え、弟子達の苦しみを和らげるため法を説いて廻り、いくら自分自身は悟っていても、眼前に繰り返される人々の苦しみを超能力で消し去ることは叶わなず人生が終わって初めて釈迦牟尼仏となり大宇宙と一つとなりました。仏が涅槃に入ると衆生に直接サポートが出来なくなるので、化身としての明王や菩薩が担いました。

 明王や菩薩は多種多様の形相で描かれたり彫られたりしていますが、元来偶像にはできない部類の神々なのです。ただ全くイメージが無いと思念が集中しづらいので便宜上夢に出てきそうなあんな感じに有り難く表現されているのです。ところが明王や菩薩も精神的なエネルギーなので、直接拝みに来た人にご利益や罰を与えたりは出来ません。善いコトをしても悪いコトをしてもご利益を与えるのも罪に落とすのも、生きた身体と共にある神なのです。勿論神聖な場所に悪戯すれば叱られますが・・

 自分の中の神は針の先よりもっと小粒で小さいけれど眩しくて直接見れません。その神の輝きが思念の映像を未来に映し出します。自らを信じ善いコトを重ね徳を積めばその通りの善い未来に辿り着きます。自らを疑い心配して怖れれば、そんな景色を投影し、その通りの未来が待っています。人は誰でも幸せになる権利があります。 全ては自らの選択と行動次第なのです。執着に汚れたスクリーンは時折清掃し、心配ばかりの感情はゴミ箱に捨てて、自分の命の内なる神を信じ、自信を持てる愛のある行動で望む未来に向かいましょう・・・

 (我は神なり。愛と光なり・・・・・称えれば勇気付られます・・・)