この世の生きとし生けるモノは通常、身体に魂を宿して生きています。
身体から魂が抜け出せば身体は抜け殻となりもはや生きているとは言いません。
たとえ魚の刺身や生肉の様にいくら細胞が新鮮であっても元生命体の一部です。
イキモノ特有の新陳代謝は停止し、因縁が終わり分解されるのを待つのみです。

 身体を抜け出した魂もイキモノではありません。身体に束縛されるコト無く
自由を得た魂は精神体としてこの世に重なる次元の壁も自在にすり抜け可能な
エネルギー体、即ち波動としての情報のみを有し、永遠に我を発振するコトも、
我を捨て全てになるコトも、中和し空の状態に帰するコトも選択可能です。

 モノは因縁に依り存在します。善悪は関係なく、ただ原因の結果として生じ
何時か因果が解かれ分解され例外なくそのモノで無くなって終焉を向かえます。
大きなタワーマンションだって、数十億で落札される美術品だって、沖の鳥島
だって、大事にされ寿命を永らえるコトはあっても結局消える宿命なのです。

 人がこの世に産み落とされる時、既に誰かが拵えたモノの中で生きるコトを
強いられます。それが家庭であっても国であっても法律であっても秩序であって
も同じです。自分専用に準備された産着を着れる時間は束の間で、いずれ自分で
自分の生きる場所と食い扶持を確保し、短い一生を渡り歩くコトになります。

 他人が創ったモノと秩序の中で生きていくのですから中々自分の思い通りに
ならず、先輩に虐げられたり、友達に裏切られて借金を背負わされたり理不尽な
世間の鬱憤に晒されたり苦しみの連続です。みんなやってるから!常識だから!
でも他人は他人だし、自分は自分。誰かが我欲の為に準備した常識の押し売りは
要りません。

 自分の人生は自分で選択して生きてこそ人生が全うされると言うモノです。
自分の好き勝手に生きるというコトではなく、自分の大切な人生のハンドルを
簡単に他人に渡すな!というコトです。この世に生まれた人の中で喩え親でも
人生の責任を代わってやるコトなんて出来ないのです。お釈迦様でも同じです。

 お釈迦様は自らは精神的に解脱し、心の苦しみからは開放されたけれども、
身体的には入滅の最後まで持病の痛みと伴にありました。彼は釈迦族の太子と
しての地位を捨て、奥さんも捨て、子供まで捨てました。誰よりも光を集めた
ら周りに闇を捨てきれない救いを求める人達が群がり、衆生の苦しみを解く為
その本質を説く道を選択しました。

 彼は覚醒するコトを自ら決め、既に目覚めたとするコトで纏わる全ての真理を
引き寄せ仏陀となりました。でもそれは精神的魂的な解脱であり身体は別物です。
人としての身体はその因縁が終わるまで当たり前に病んで老い朽ちて逝きます。
彼の場合は火葬にされその遺骨はバラバラに分骨され、火葬台の砂利までも多く
の弟子達に分けられ、その砂利を祀る各地の仏舎利塔の本尊となりました。

 彼の身体は因縁が終わり空と化したが彼の説いた法は入滅後2500年を超えても
生きていて現役の量子学とその解を共有しています・・・

 仏陀が悟った真理とは、貴方はあるがままでいいんだよ!そのままで無駄なく
この世の一部であり全てだよ!光と影は裏表でセット!苦があれば楽もセット!
ピンチはチャンスとセット!どちらを選ぶかだけなんだよ!・・・・・