何時ものように朝のウォーキングのコースの中にある公園でベンチが
乾いていれば腰掛けてストレッチ、股関節、足首、腰の順でほぐし、
次にぶらぶらの最上段を掴み自らの体重で背筋を牽引、その後腹筋台に
移り伸ばしきれなかった膝関節を固定した足を片方ずつ引っ張りそのまま
腹筋運動少々、両手を伸ばして空を見上げれば清々しい青空と綿あめの
様な白雲、ぼーっと眺めれば雲は少しずつ流れ、キャンパスに描かれた
絵画で無いコトを教えてくれます。

 人は何故固定したがるのでしょうか?歩いていても知らずに歩数を読んで
いたり・・・この世界に何一つ固定されたモノなど無いのに・・悠久の時を
経験してきた青空と白雲も同じような景色ではあっても一度もほんの瞬間も
同じモノは無いし、止まってもいないのに・・この世界の全てのモノが移り
変わるので逆に何か絶対なモノを創りたいのかも知れませんね・・例えば
数字、1,2,3・・・りんごの数を数えるには便利な概念ですが、りんご
にしたってただ一つとして同じ個体は無い筈です。

 屁理屈と言えばその範疇に入るのかも知れませんが・・りんごにも種類が
あり大小があり、生産農家で箱詰めされた箱には産地や種類、等級が表示
されある程度の許容範囲に収まれば一緒に箱詰めされます。でも厳密には
同じモノは無く、現実的にそれ以上の細かい分別は、農作物売買に何の貢献
がある訳でも無く、コスト的に見てもメリットはありません。りんごなら
問題が無くても、超精密半導体の製造プロセスではそうは行きません部品の
選別や製造装置の精度、使用薬品の純度に至るまで9999・・・が並びます

 でも永遠はありません。円周率が割り切れない様に全ての数字は永遠の
0に収まることは無いのです。全て違うのに全て同じに扱うのは人間と
いうより管理者側の利便性なのです。人間も含めてこの世界の万物は全部
個性であり可能性なのです。画一化を図るコトに依り管理がしやすくなる
反面可能性の芽を摘まれているのです。そもそも捕らえ處の無いモノを
不完全で精度の出ない物差しで測り分別しても図れるモノではありません。

 法律の名の下強制的に分別されると必ず一部は法律の矛盾の為に罪なき
犠牲を強いられるコトとなります。法律は韓非子が骨子を編んだ時から
元々為政者の為のモノでした。結局韓非子も貶めた趙高も法律に裁かれ
抹殺されたのですが・・勿論社会運営の為には秩序は必要です。しかし
管理者側が自ら自浄出来ない管理者を管理できる術は被管理者側にも必要
なのです。そうでないと殺人者が無罪になり無実の人が死刑になり得ます。

 仏陀が説いた法は法律とは別物です。教団には秩序維持のため戒律は
有ったでしょうが・元来、法は真理でありこの世の法則を指すモノであり
体系化するコトも記録できるモノでも無いのです。善きも悪きも混沌の
変化の中にありその選択はあくまで個々の選択に委ねられるべきモノです。
自らを信じて自分軸を守り、誰の為でもなく自らの為に自らの選択が
出来れば自らが上昇し、きっと周囲の人の為にもなり得るのです・・

 決して法や権力者を疑えと言っているのではなく、歴史が造ったこの
世界の中の秩序と付き合いながらも自分を活かそうと言うコトです。
誰の背中にも目に見えない立派な翼があり、その気になれば大空を翔ける
コトが可能です。管理教育でそんなモノは無いと洗脳されている場合では
ありません・・洗脳されたフリが出来るしたたかさは必要なのです。

 すでに変化の時代に突入しています・・・・・