時代の変化に対応が出来なくなって。通用しなくなったコト。
誰かがホワイトナイトの様に助けてくれると期待し、渡されたオーダーに思い通りの回答を生み出せず空振りを繰り返した。時代の変化の風は万物に吹き荒れるので誰もが例外なしに環境変化の中で道を模索し、生き残りを掛け他人を援ける暇も余裕もない。そもそも自分を助けるコトが出来るのは自分だけなので、他人との関わりの中に在っても他力依存は正しくない。ただ自らを頼り、自らが動き発信したモノだけが時代の活路を開いてゆく。それが出来ないと時代に取り残される。
過ぎ去った昔のささやかな成功にしがみつき、変らないプロセスで同じ結果を望むが徐々に徐々に確実に回転が鈍化し終には回らなくなった。昔のようにと望む願いと現実の結果は全く別の処に有る。歴史がダイナミックに繰り返すコトはあっても、過ぎ去った自分の昔は二度と取り戻すコトが出来ない。今の自分に必要なのは今のプロセスであって、そこから眼を逸らしていては見つかるモノも見つからない。もう後すがりが出来ない崖っぷちなら、勇気を振り絞ってエゴを捨て去るしかない。
環境の中で生きながら環境に感謝するコト無く、自分のコトしか考えず上手くなければ不平不満をぶちまけ他人の責任に擦る。自分なんてちっとも偉くも無いのに、損得勘定で天狗になって上から目線で周囲に対応する。やがて徐々に徐々に信頼が損なわれて近しい人からも愛想を尽かされて孤立する。自分自身が想い通りにならないのに何故他人を想い通りに出来るのか? それに気付かない内は、自分では判らない内に他人に振り回されジョーカーを掴んでしまう。それが嫌なら謙虚になろう。
神様参りやお墓参りしているから自分は何をしても護られると慢心している。そのくせ神様の前でもご先祖様の前でも願い事をしてご利益を期待している。確かにお参りは気分が善い。なら先ず善い気分に感謝しなければならないのに、我欲を満たそうとする。そんな邪心では、よしんば神様仏様が福徳を下さろうとしても合わせた掌をすり抜けて落としてしまう、神社の鏡に映し出されるのは自らの姿。ご先祖様達の遺伝子は自分の身体に脈々と流れる。願いは自らに願い、叶えるべく精進して初めて内なる神仏から福徳が生まれる。
通用しない固執は捨てよう! 感謝して謙虚になろう!
気付けたから変わろう! 反省したから今から動こう!
幸せになりたいから幸せにしたいから・・・・・