人間は誰もが既に構築されている世界に出生します。心身代謝を繰り返し成長しながら変化し自分を生きていくコトになります。生まれて出る環境は自分で選択するとも言われ両親の特に母親の産もうとする覚悟にも間違いなく起因し影響を受けます。人は一人ではその存在が始まるコトはありません。初めから何らかの縁と繋がった容で人生が在るのです。

 縁(えにし)とは? 量子力学では素粒子のもつれ現象という波動の受け渡しの縁があり原子にも原子レヴェルの縁起が存在します。ただその関係は認識した場合のみ1対1で考えますが実際は無数対無数の繋がりがある筈で、様々なレヴェル:分子 細胞 臓器器官 個人 家族 町内会 区民市民 都道府県民 国民 人種 宗教思想主義 惑星 恒星系 銀河の腕系 銀河系・・・・・・・、ミクロからマクロ迄 縁があり起こるという共振状態を持ち合います。

 どんなレヴェルでもエネルギーが弱まれば補充され維持しようとしますが人間は補充の選択の積み重ねで生まれた時の純真無垢な状態と比べて大きく変わります。変わるに連れて自我と言う凝り固まりに穢され、眼は観えなくなり元来備わっていた自由と自在を失い自ら苦しみます。周囲多方向からの働きかけからわざわざ自分が苦しくなるコトに執着して選択している事に気付かず捨てるべきを捨てず捨てざるべきを捨ててきた結果、身動きが執れなくなり苦しむ。

 仏教の開祖のお釈迦様は苦しみは自我に固執するモノの捉え方が原因で本当は自我など何処にも無いという諸法無我を説いて人間の苦しみを除こうとしました。現代の理論物理学で導き出されるこの世の物質存在の不確定性を達観し本質を見抜いていました。ジャイナ教の開祖と言われるマハーヴィーラはこの世の事象の全ては相対的に判断すべきであり、立場が違えば真理も多様化すると説き、仏教とは対抗する教義を採択しました。ただ現在のインドでは苦行を推奨する戒律の厳しさ故か続いていても広まるコトはありませんでした。

 ご存知の様に現在のインドではヒンドゥー教が最も信仰されていますが、教義がおとぎ話の様に面白く難しい知識が無くでも理解でき、何より仏教の様に輪廻転生せずワンネス(涅槃)の境地に到達することを目的とする死んでからの話ではなく、あくまで現生御利益を掲げていて、実際生きている人間からすれば願ったり叶ったりの自由度があるので、日本にも渡来し神仏習合の一役を担うコトになっています。でもどんな宗教にも真理が在るのですが、人は究極的には自分だけの真実に到達しなければ人生の目的は達成されません。

 人は一人では存在しえないし生きてもいけません、周囲の自分以外のありとあらゆる存在と干渉しあい縁を持ち合い振動を同調させ、しかも変化しながら死ぬまで世渡りをして行くモノです。今朝朝食で食べたトーストも、昨晩食べたお魚も、少し前に食べたお肉も・・みんなみんな縁がありエネルギーを分け合い存在するのです。袖すり合うも他生の縁と言われます。ましてや親兄弟親族は本より付き合うことになる人達や夫婦の契りを結ぶコトになる人、その二人の間に授かる子供達等は猶更です。他生の縁は多生の縁とも記されるそうですが、この生は現生では無く生まれ変わりを
繰り返す中で結ばれた因縁だそうです。

 有無はさておき前世ののコトは考えても今世のお腹の足しにはならないので、今自分が置かれた環境で如何に上手に世渡りしていくかというコトと自らの幸せの実現には、自分と周囲全ては干渉しているというコト、そもそも自分はそんなもつれ現象の産物だというコトをしっかり認識する必要があります。だから人のコトを人間と表現します。ハードである身体は緩急の差はあれど常に代謝していきますしソフトである考え方も様々な要因で変革されるモノです。大事にするコトも時には重要ですが時には捨て去る勇気も必要なのです。

 自分が今何処に居るのか?そして何処に行きたいのか?その時々によって対処も変化します柔軟に対応する為には、凝り固まった執着は害をなします。エゴのコートを脱ぎ捨てた魂の赴くまま眼に張り付く偏見というフィルターを取り除いて自在の選択が出来るようにどちらでもない状態,量子学でいう重ね合わせの状態で未来を迎えましょう。

 一妻多夫や一夫多妻は現実には大変ですが自分の周囲には多数と繋がり合う網目の様な縁の関係が時を超え空間を飛び越え変化しながら存在します。表現にいささか違和感がありますが、一投手多捕手、一捕手多投手でも構いません。なんなら多投手多捕手が適切かもしれません。人間は一度に沢山投げて一度に沢山受けて成り立ちます・・・・・