超弦理論の集大成であるのM理論ではこの世界は空間としての次元が10個、時間次元の1個を加え11次元とすると数学的にいろんな意味でシンプル且つ矛盾が無くなるとします。時間を次元に加えるコトは賛否両論の交錯するところですが、満天の夜空に広がる星々の光は観る人の眼に飛び込んで来る時すでに時間差が織り込まれていて空間は時間と切り離すコトは出来ませんのでアインシュタインが呼んだように時空間と表現するのが合っているのでしょう。
人間が認識できる空間は3次元ですがブラックホールなどの大質量の集合が周囲の空間を歪め直進する光が曲がったり、重力レンズ効果で遠方の同一銀河が数個に分かれて観えるコト様にこの宇宙が単なる3次元空間でないコトは人間の眼にも捉えることが可能です。これで4次元。でももう1次元視認は叶わないけどこの宇宙には5次元目があります。どの次元にも時間は干渉するので時間を0次元として真ん中に置き、1次元=線、2次元=面、3次元=立方、4次元=超立方、5次元=超超立方。そして0次元の反対側に-1次元、-2次元、-3次元、-4次元、-5次元にすれば全部で11次元でどうでしょう?勿論-次元はあの宇宙に展開するというコトで・・
マクロな宇宙に果ては無く、そもそも在ったとしても観測不能です、同じくミクロの世界にも果ては無く、やはり有ったとしても観測できませんと言うより観測するコトで簡単に変化します。行き着くところは0次元でその向こうにあの宇宙の-の次元へと繋がっていて最終的にマクロなこの宇宙の果てに繋がってループしているのです。と言っても誰も証明できませんし否定も出来ません。ただこの宇宙に相対するあの宇宙がたった一つでは在り得ませんし逆に無限に在るのかも知れません。そもそも証明される為に存在する理由もありません。だから何でもありなのです。
この宇宙が何でも有りなのに何故私達は様々な制約に縛られているのでしょう?
昔々あるところに住んでいた私達の遠いご先祖様達は自然になる海の幸や山の幸を採集したり、簡単な道具を手に獲物を狩って捕食しながら自転車操業で命を繋げてきました。その~日暮らしがどんなモノなのか?~♪わかっているのかいルイジアナ~♪もとい子孫たちよ~♪ そして何時の時からか大自然の摂理を学び穀物の栽培を覚え貯えを始め幸が少なくなる冬の季節に備えるコトが出来るようになりひとっ処に定住できる様になりました。
人は親族を中心に集団生活を始めると穀物の貯えと集団の頭数の論理で集団にも力関係が生じ弱者は強者に略奪を受け淘汰併呑されるさまは現代も何ら変わりません。集団を強くする為に様々なルールが制定され人は生きる残る為に制約を受ける様になりました。やがてその制約は為政者に有利なように改竄されると、私達の肩には理不尽な制約まで載せられるようになり。その理不尽に目が向かない様に幾ばくかの娯楽を与えられ、身分制度を導入して不満のはけ口とし自らは中くらいだと錯覚が起きるような誘導教育の色眼鏡を掛けられ、搾取され続ける家畜が如く身体も精神も縛られた生活をする様になりました。
その日暮らしは厳しいモノですが私達はそんな道も通って来たご先祖様達の子孫なのです。野生の植物や動物達はその日暮らしが当たり前です。私達は元来自由な存在なのです。わざわざ制約を受けた世界が全てと考える必要などありません。人がこの世に生まれてからあの世に旅立つまで生きる世界は5次元も有るのです、底辺で這いつくばって藻掻いている場合ではありません。この宇宙にいる限り5次元世界にも時間は干渉します。時間は存在しないという考え方もありますが。モノが動くコトがすなわち時です。人として生きている間に能動的に活動すれば意識しなくても5次元にも足を踏み入れ、制約の枠を超えた奇跡の様な夢も現実に出来るはずです・・・・・
私達がいる世界も11次元の一部なのですから・・・