仏陀の弟子の一人である目連尊者は、神通第一と称されたくらい超能力を使えたそうです。
ある時、亡くなった母親が気になり神通力で探してみると、餓鬼道に落ちて苦しんでいるコトが
判り、嘆いて師匠である仏陀に相談しましたが仏陀はお前の母は自らの業でそこにいるのだからお前の能力をでも助けるコトは叶わない、でも僧団にお布施をすればその功徳でその苦しみは脱するだろうと教わり、その通りにすると母親は救われたそうです。この逸話は盂蘭盆会にお布施し先祖供養をする一つの由来となっていますのでご存知の方も多いでしょう。自分が造った罪が業(カルマ)となり、自らが報いを受けるという仏教の基本概念の因果応報の一例と言えます。

 目連の母が罪を犯した報いを受けるのは自業自得であるが、目連が僧団(乞食集団)にお布施すると言う、罪と相対する功徳を積むことで、別の因果律が発生しその報いとして母親が救われたコトになります、汚れた服は汚れた水で洗っても汚れは落ちません、悪行は善行によってでしか帳消しになるコトは無いのです。目的を果たす為に為すべきコトは決まっているのです。悪事を為し、それを隠し、強制的に無かったコトに見せかけても、より大きな悪事を重ねることにしかならず逃れきれないカルマが原因となっていずれ結果を受けるコトになるのです。これは勧善懲悪とかの人間の解釈の問題ではなく、この大自然の法なのです。

 自分が思い道理にならない事象に出くわす原因は自分にあります、その事象をどう捉えるか?気付きや学びの機会と為すのか?ただ悪運を嘆き誰かを恨むのか?選択次第で全く異なった未来に移行します。誰ぁ~れの♪せいでもありゃしない~♪みんな俺いらが悪いのさ~♪(古る!)
でもみんな俺いらのせいではありません、でも結果は自動的に現れます自分を悪くするのではなく、善くする為にどう解釈し選択し行動するかです、全く罪を犯さない人などいないのです、多かれ少なかれ何かやってます、これはお釈迦様でも同じです、そもそもこの世に善と悪の区別など無いのです。陰と陽、コインの裏表のように、セットで生じセットで滅するモノなのです。だから割り切らなくてはなりませんし割り切れなくても問題ないのです。でもどうせなら苦しみの煉獄より自由自在の境地に往きたいモノです。だったらそう選択して往くしかないのです。

 円周率πは無限に割り切れません、でも割り切れるって何でしょう?それは人間が頭の中で
設定しているタラレバでしかないのです。本当は円周率が割り切れないのも数字の1が1.0000・・・とどこまでも0が並ぶコトも同じなのです、この世に絶対0や絶対1も存在しないのです、その境界はあいまいなのが真実に近いのです、量子学でもそうなっています、蓋を開けて見るまで判らないし、蓋を開けて確認するコトがどちらかを決定するのです。蓋を開けるという原因で白黒の確認になるという結果に繋がるセットなのです。量子コンピューターは0か1かどちらにもなれる理屈で一挙に可能性を増し次世代のコンピューターとなっています。

 自分が出くわす事象は善と悪のどちらでもあるコトになります。善か悪か0か1か自分が選択した方に現実が傾くのです。これを信じ切れれば丁半博打で常勝出来るコト請け合いです・・・私は母のお陰で博打はしませんが・・・・・

 そうそう陰と陽が混ざらない様に善と悪も混ざるコトは絶対にありません、揺らぎはしますが・・・