凪という時間があります、なんとも言えず穏やかで、波風がほんのひと時だけ忘れ去られたように止まります、嵐の後そしてこれから波立ってくるのは避けられない状況とは解りつつ、とても充実した時間に浸ることができます、これも人として味わうことの出来る幸せの一つなのかも知れません、このまま時間が止まればいいのに・・でも時は流れ現実を連れてきます、私はとても穏やかな凪のような時間に喩えようのない充足を感じますが、人により異なります、何時も戦闘状態にあることを好むわけでもないのに身を置きたい人もいますし、そんな時間を無駄だと感じる人もいます。
私は昔数の子が食べられない時期がありました、今では大好物ですが、幼い頃、卵とじ料理に数の子が贅沢にも入れられていたのを知らずに食べてしまい、其の初めて感じた食感と、ただの卵とじだと疑いもなく数の子を口にしてしまった結果、勿体無くも、私の幼心はパニック状態に陥り、なんと戻してしまったのです、それ以来当分の間数の子を視るだけでその記憶がよみがえり、吐き気をもよおし受け付けられなくなってしまったのです、人の思い込みは大したモノです、何の問題もない食べ物が思い込みによりアレルギーの原因になったりもします、数の子というある意味贅沢な食材を美味しく感じさせない精神的歪曲が生じるのです、私が克服した流れは、美味しい数の子料理を食べ、次に普通の美味しい卵とじを口にして納得し、合わせたモノが不味いはずが無いと言う、先入観の意識付けからというモノでした、でも人は克服できるまでは、理不尽な自分なりの拘りを大事にしてしまう傾向があります、何よりも平和がいいでしょうと思っていても、人により異なります、自分の物差しで人を計るのは自由ですがそれが合っている訳でもありません、逆に人の物差しで自分を計られることにも素直になれません、だから共通の物差しを採用するコトになってゆくのですが、共通の物差しにも問題が内包されてしまうのです、ならどうしましょう?解決法があります、共通の物差しに伸縮自在な素材を採用するのです・・そうです無茶苦茶な理屈ですが、そもそも人が人を計るコトに意味などないのです、誰もが共通の認識の感情があれば簡単なのですが、あやふやなモノを統一すること自体が困難を極めるのです、でも流れの中ほんのひと時波風の止んでしまう凪の時間も紛れもなく存在するのです・・そんな時誰もが穏やかな時間に心の安息を感じられれば良いのですが・・・