この世の人にはあの世のコトが良く分からず、あの世の人にはこの世のコトが良く分からないといいます、この世に生きる人はこの世での生を全うするコトが人生の目的であり、あの世が在るのか無いのか、人に死後の世界は有るのかといったコトを追求するのはあまり意味がありません、お釈迦様も有るとも無いともわざと説明はしてくれない命題です、ただ良く分からないコトに対して真実を知りたいと思ってしまうのも好奇心旺盛なこの世の人の性なので、先生が深入りするなと教えてくれているにも係わらず、ああでもない、こうでもないと弟子の段階で探求され体系化までされて死者の書なんて形で確立化していたりなんかします、チベット仏教では法王的な指導者であるラマが輪廻転生してこの世に何度も生まれ変わり、ラマ同士が導き合い、指導し合うコトが重要な役割を与えられているので、在るとしか言えないという立場に立脚しています、ラマが来世自分がどこで転生するか予言を残してこの世を旅立ちます、それに従い高僧たちは生まれ変わりを見つけに行き、候補者を絞って本人しか知りえない複数のテストの正解を確認して、その人を探し出し、その後は特別英才教育を施し指導者に育て上げます、死者の書には人が臨終の時どういったプロセスで死後の世界に向き合えば想い通りの世界に生まれ変わるコトが出来るかとか、そのときの注意点などが淡々と説明されています、まるで行って見てきたように・・

 

 宗教に生きる人達には一般の人とは常識そのモノが違うところがありますので、人知を超越した不思議な事象も当たり前に語られるし、超能力的な力も必要に応じて人が利用できる力として活用されていたりもします、特に山岳地帯に設営されたポタラ宮のような世俗とは乖離した極めて閉鎖的な環境は実際この世とあの世の中間に存在しているともいえるでしょう、この世にはこんな精神的な地域も現実に存在すると同時に隣の国のエゴで指導者を亡命させられ戦いとは縁の無い国民を暴力で蹂躙され、まるで山を更地にするような暴挙の被害にも晒されています、そのまた東の端の隣国はまるでこの世の地獄の様相です、この生き地獄ような地域にも世界中でどこにも無いような常識が存在します、こっちの国の人にはあっちの国のことがまるで分かりません、死者の書も実際には生きた人が編纂したのは間違いないでしょうが、書いた人達は死後の世界に想念を飛ばしたのかも知れません。

 

 お釈迦様の弟子の一人である目連尊者は神通第一と言われあの世もこの世も自在に行き来し、死んだ母親が地獄で苦しむのを観てお釈迦様に救う方法を請うたといいます、お釈迦様は過去を取り戻すことは叶わないが、母親が出来なかったコトを代わりにしてやるコトは出きると僧団にお布施をするコトを勧めたそうです、目連尊者は言われた通りに施し、その後母親が救われるのを確認出来たそうです・・この世の人にはあの世の人をどうすることも出来ないがこの世で良い行いをすれば結果あの世の人にも影響するということでしょう・この世の全ての答えはこの世にあるのです、こっちの国の全ての答えもこっちの国にあるのです、あっちの国にはこっちの国とは全く違う常識があり、あっちの国では、こっちの国の常識は非常識なのです、だから如何なる働きかけもあまり効力が無く、出来ることはこっちの国で行動を起こすことしか無いのです。

 

 これは個人の人間関係にも当て嵌ります、私には貴方が分からず、貴方にも私が分からないことが当然の前提なのです、権力を行使してもお金を使っても超能力に頼んでみてもどうするコトも出来ないのです、仮に出来たように見えてもそれは上辺だけの繕いであり、素振りだけなのです、だから求めるべきは貴方にではなく常に私になのです、自分が為すべきコトを為す以外は貴方に何もしてやれないし、それは貴方からも同じなのです・・誤解されやすい命題なのでもう少し踏み込みますが、貴方に対する優しさを否定している訳ではありません、愛すべきは目の前の貴方ではなく私の中の貴方なのです、私の中の貴方を大事に出来るから目の前の貴方の苦しみを和らげるコトも可能になるのです、そうすれば愛は代償を求める存在では無くなりますし、相手に期待して裏切られるコトも無く、上手くいかなくても自分の中に解決法を見つけるコトが可能になるのです、私も貴方もお互いに過ぎた過去を修正することは出来ませんが、自分の中に入り込んだ貴方と今を積み重ねることで未来は築いていけます・・


 国同士も全く同じ理屈なのですが、あっちの国にも事情があり軍事力や財力ではどうにも思い通りになんか出来ないのです、犬は怖いから吠えますし、追い詰められたネズミは無駄かも知れませんが猫にも噛み付くのです、こっちが嫌がれば嫌がる程もっと並べ立てるモノなのですこっち嫌がるコトを放棄すれば、あっちも嫌がらせの意味と必要を失うのです、こっちの国の中のあっちの国を理解しようと努力できれば自ずから問題など起こらないのです、問題はこっちの国の常識であっちの国を非難するところにあります、あっちの国はこっちの国を映す鏡です、そこに映る醜さは実はこっちの国の鏡像だったりするのです、人の身体は常に新陳代謝を繰り返し入れ替わっています、言い方を換えれば細胞レベルで輪廻転生を常にしているのです、そう考えれば死後のあっちの世界はこっちの自分の中にあるとも言えます・・だから何時でもこっち次第なのです・・私は貴方のその場凌ぎの愛想笑いや、引きつった造り笑いには関心は無く見たくもありません、ただ心からの微笑みを見たいのです・私の中の貴方のような・・・