自分という意識は身体の中のどこに居るのでしょう?モノを思考するときは頭で想いを巡らすので自分という存在は脳のどこかで意識されています、なら自分は脳の中にいるのでしょうか?意識されている場所ではありますが存在している場所と言い切れるでしょうか?自分の器である身体は見える通りの場所に存在しています、脳は卵の黄身のように多少の外的衝撃から護られた構造の中にあります、脳の周囲には軟膜があり、クモ膜があり、髄液があり、2層の硬膜があり、頭蓋骨が取り巻き、皮膚で包まれ、髪の毛まで生えていますので、最重要器官ではあるのでしょう、あまりにも頑丈で過保護な構造の為、逆に中で異常が発生すれば、圧力が内側の脳を圧迫し様々な障害を引き起こします、そんな逃げ道の無い牢獄のような場所に自分は住んでいるのでしょうか?構造が保護しているのは実はメカニックなハードウェアであり、その中を駆け巡るソフトウェアである意識は身体中のハードに指令を出し、寝ている間でも管理制御しています、指令は神経回路で伝達されたり、化学物質を送り込むコトにより為されたり、あるいは未だ科学的に解明されていないルートで伝達されたりもしています、脳の複雑な構造はある意味受信機でありある意味発信機なのです、モノを集中して何度も考えることにより、周波数が揃い増幅されて一定方向の空間に飛び出すレーザーのように思念を飛ばすことも可能です、脳の構造は修復不能な神経細胞の集合体を保護するのと同時に思考を駆け巡らせてハードウェアから飛び出して自由な想念を生成する構造器官でもあるのです、人は誰でも物理的に拘束を受けると拘束を解きたくなり、狭いところに閉じ込められると外に逃げ出したくなります、新生児の頃は逆にケットで包んで手足の自由を拘束すると落ち着いて眠りに付きます、母親のお腹の中と似た感じなのかも知れません、眠りに付くと、目覚めている時に自分では何も出来ないイライラ状態から抜け出し、自由な空間に意識を遊ばせることが出来る、生まれてくる前の意識体に戻れて安心するのかも知れません・・
脳は活動するのに心臓から血液の供給を絶え間なく受けるコトにより栄養やエネルギーを多く補給します、ホルモンの生成に必要なエネルギーもありますが、レーザーのように外に飛び出す為に高エネルギーの励起状態が必要なのかも知れません、小学生が宿題に集中すると、すぐ頭が熱くなるように使い方の効率が悪いと所謂知恵熱が発生します、宿題という閉鎖空間に思考を集中させるという状況から逃げ出したいと思う感情が一部熱となって逃げ出しているとも言えますし、効率よく思考を操る為の訓練状態でもあるのでしょう、心臓は脳が動かしているのでしょうか?寝ていて無意識の状態でも動いているので、意識しては制御していないようですが、周囲の状況によりアドレナリンやインシュリンの生成の指令を各器官に出すことにより鼓動を早めたり、血中の糖分を抑制したり間接的には管理はしていますが、心臓は心臓で勝手に動いています、心臓が動き始めて生命活動が開始し、完全に停止することで命は終ります、特殊な場合は電気ショックやマッサージで再起動もしますが、脳との関係やその他の器官との相互干渉の為何時までも動き続けるコトは出来ません。
人の身体を車に準えると、心臓はエンジンであるでしょう、燃料の供給を受けている限り動き続けようとしますが、ラジエターに不具合が生じ冷却に支障をきたすと焼きついて止まりますし、潤滑油が切れても止まります、燃料満タン、エンジン快調で合っても、燃料供給パイプが詰まってしまい供給が滞ればガス欠を起こしやはり止まります、心臓も心臓だけの根性で動こうとしても周囲が老化したり機能が劣化してくると止まってしまう相関があります、EVの場合は発熱によるモータの焼き付きも有り得ないコトではありませんが、ぐんと少ないトラブルでしょう、EVの場合は逆に冬のヒーター等の熱源を別途準備しなくてはなりませんし、バッテリーという必須条件に対する条件も巨大化するだけでなく機能維持に新たな技術が必要でモーター停止に直結した原因ともなりえます、そして車の場合は脳が運転手なのですが、ドライバーの作業も随分車がサポートしてくれる様になってきていますし、その内人口頭脳が文字通り車の脳になるでしょう、その暁には人は車のお客様となります・・その次の行き着くところはお客様であることも放棄され、新生児の夢の中のように全ての経験を思考を巡らす電脳世界に移し、ハードウェアは植物人間と化していくのが最終的な人類の進化の一つだと提唱する科学者も出て来ているようです・・
それがお釈迦様の説く涅槃の世界なのかも知れませんが、現実世界で四苦八苦生きている人間としては、何だか寂しいような、何とも言えない焦燥感にかられますし、別の方向を選択したい気にもなります、少々トラブルを抱えながらも、痛さ痒さや苦しさの中にある真実を捨てきれないのは意味が無いとは思えません、バーチャル世界には苦しみも無い代わりに真の幸せも無いでしょう、元来説かれている涅槃の世界とは全てがあり全てが無い世界なのです、現実の世界もその理屈は同じなので、この世が涅槃の世界でもあるのです・・自分の意識の想念や思念は飛び回ることが出来きるし、この世でもあの世でもどこでも自由自在に行き来し存在出来る居場所となるのです・・・