自分の命が無ければ全ての価値観は無意味です、命と身体は一つです、身体の無い命は無く、命の無い身体もまたしかりです、身体を維持するには意識が必要です、意識には無意識というのもあります。身体を構成する細胞は新陳代謝を繰り返し常に入れ替わり再生されます、これは無意識下でコントロールされ、新しい材料が不足すると本能的に食べ物を摂取します、新しい材料で細胞を造り直し、古い細胞は破壊され一部再利用され残りは老廃物として廃棄されます。一番長持ちする骨細胞でも7~8年で100%入れ替わるそうです。

 

 身体の維持には食欲だけではなく色々な欲求が必要です、身体の外から受ける危機や不安に対しても逃げたいとか戦いたいという衝動も生きようとする本能ですし、社会的生物である人間としては、いい車に乗って綺麗な彼女を誘い高級レストランでフルコースを楽しみホテルに・・・と言う感じで人間ならではの複雑な欲求の満たしかたがありますが、欲が無ければ人生余り楽しくないかも知れませんが虜になり過ぎれば破滅します。欲は大事ですがバランスも大事です。

 

 仏教では欲は全て否定されることはありません、欲に対する執着や貪りを悪と説き修行中は節制させますが生きる為に必要な欲は少しで足りなさいと教えます。人それぞれ価値観の違いはあります。仕事が大事と家庭を疎かにし崩壊させる人もいますし、家庭を大事にし過ぎて仕事が疎かになり破産する人もいます。仕事も家庭も大事な事には異論はありません、どちらも一つのことに集中してだけでしたが疎かにしたということは怠けていたのです、例えて、皿回しでこっちの皿ばかり回しているうちに、あっちの皿が落ちてしまった感じです

 

 自動車を運転する時は目で見える範囲全てに気をつけながら運転します、信号機、標識、車線、歩行者、自転車、対向車、後続車、追越し車、速度計、残燃料・・何か見落としたり注意をしなかったりするとそこから事故が起こります、運良く何事も無く過ごせても何時も運があるとは限りません、歩道橋の上から物が落ちてくる事もあるのです、事故は自分の不注意だけで起こるのではありませんが自動車に乗ると言うことはそういうことなのです。

 

 好き嫌いは誰にでもあります、食べ物の好き嫌い、音楽の好き嫌い、人の好き嫌い、勉強の好き嫌い、好きで得意なことは誰に言われる訳でも無く勝手に沢山取り入れる事が出来ます誰よりもずば抜けて好きな道を極めるという人生もありますが、世間からは少し変人に見られます。嫌いなことは過去に嫌な経験が引金になることもありますが自然と避ける様になります食べ物であれば嫌いで避けてきた食べ物の中にその人に不足している栄養素が含まれることがあります、反対に甘いものが好きで取りすぎた人が糖尿病になったりもします。

 

 理系が得意な人には文系のモノの考え方が、文系の人には理系のモノの考え方が栄養不足になることもあります、どちらも極めて先生や博士になってしまうと、自分の主義主張を強化することのみに精進し、もう誰の言うことも耳を傾けません自分の立ち位置に壁を造ってしまうので、そんな先生においそれと意見も言えません。ただそんな先生にも予想もしなかった弊害が出たりします。先生の子供は子の立場で先生を見ています、偉そうな事を理詰めで押し付けられてもしっかり欠点や矛盾を見ています。だからグレて不良になったり、事件を起こすことがあったりもします。

 

 人の好き嫌いは容姿に多く、その次に性格ですが、人が人に出会う時少しでも自分をよく見せようとするものです、女性ならお化粧をして文字どおりに化けます、性格にしたって嫌いな人には嫌な面をわざと見せても通常私はいい人ですを演じて武装します。だから好きな面だけ見ていると後から出てくるのは嫌なところだらけだったりして失望させられたりもします。だから人を見るときは好きなところは意識しなくても入ってくるので嫌いなところを意識して探しその嫌いなところが自分の許容範囲かどうかで判断します。すると後から見えてくる部分は好きな部分だったりします。その人に好き嫌いの感情の無い人は正確な判断がしやすいですが・・

 

 こう見ていくと自分の大事だと思うことを大事にするのは仕方が無いですが、大事にしていない疎かにしている部分にこそ自分にとって大事なことが隠されているのかも知れないので、気が進まない怠け心を排除し、嫌いなことにも取り組み、日ごろから意識して疎かにしている部分にも力を注げたら突然訪れる人生の難儀を軽減してくれるかも知れません。これこそ人生修行です。