本当に強いかどうかは別にして強くあろうとするお父さんは普通息子にも強くなって欲しいと望み、知らず知らずのうちに息子に対し何かにつけ厳しくしてしまいます。特に最初の息子は経験がなく加減が分かりません。そのお父さんの下に生まれてきたその息子の宿命の部分もあるのですか、必ずしもお父さんの思惑通りにはなりません、子供はお母さんの子でもあるし、誰よりも子供自身自然と選択し対応するようになります。空手の練習試合で負けてしまったこと、学校で喧嘩して泣いてしまったこと、お父さんに知れるとお父さんが悲しむと予想されることは自分からは言いません、聞かれると極力自分は善戦したことを報告します。子供は子供なりにきっと傷ついているのです。その上お父さんの心情まで考えています、それを見たお父さんは自らの教育方針の一つの答えであることを悟らなければなりません。厳し過ぎることもなく、優しすぎる事もなく、放ったらかしでもなく、お父さんの息子に対する接し方はデリケートなのです。
お父さんがとてもやり手で実力があり忙しい人で、息子の教育に無感心か、又は暇がなく母親任せの場合、干渉し過ぎるよりまだましです。凄いお父さんが隣にいて干渉すると息子を潰します。そんなお父さんは淋しいですが離れていた方が良いです。遠くで景色を眺めるように息子を眺め、独り立ち出来るまでは経費だけ援助し干渉は不要です。凄い人はイメージを何故か実現させる不思議なパワーがあるので、息子の行動を見て自身の経験則に当てはめ、例えばグラついている椅子の上で背伸びして高い所の物を取ろうとしているのを見てしまうと「危ない!落ちる!」とイメージするだけで本当に落ちてしまうことがあるように、何故か視ている時に事故が起きます。目の前だから直ぐに病院に担ぎ込めますが、落ちないに越したことはありません。そんな場面に遭遇したときは、頭のなか空っぽにして何もイメージしないか、反対に「絶対落ちない!」と強くイメージコントロールすることです。見ていない時間の方がずっと長く、危なっかしい場面も沢山あっても無事なことが多い筈です。息子には息子のバランスがあるのです。
本当に弱いかどうかは別にしてお父さんが弱い人か亡くなっている場合、息子は強く育ちます。当然強く生きるしかない環境ですが、息子は理想の父親像を世間に求めあんな人が父親だったら良かったのにとか、あんな父親が欲しかったと自分の見えているイメージだけを人生のお手本にし、強く逞しく、そして自由に成長します。所詮お父さんは息子にその生きざまを見せることしか出来ないのです、少し大きくなれば親父の言うことなんか耳に入りません。自分達がそうであったように、親父の有り難みなんか解るのは、いなくなってからです。
幼い頃、父親を無くした友人に不覚にも自分の親父の悪口を言ってしまった時、友人に「それでもいるだけ良いじゃん」と言われましたが「いやいや、居たら居たで色々嫌なことも多いよ」なんて罰当たりなこと言ってしまいましたが、叔父さんは同じような境遇の友人に「あのくそ親父俺を殴りやがって」と言うと「お前良いなぁ!殴ってくれる親父がいて」と言われたそうです。
お父さんも昔は息子だったし、息子もいつか親父になってくれることを、しがないパパは望むだけです。