組織は個人の能力を活かせない。個人が組織に入ることにより組織のルールに拘束されるので個人的能力は組織に搾取され平均以上の成績は平均以下の個人に補填され還元されない、例えが悪いですがスーパーで万引きされる損失は万引きしない人が補填しているのと似ています。但し日本の有力企業の底力は献身的な個人能力で支えられている部分を無視できないし、そんな組織にとって有能な個人は組織を支えていることを自負すらしている。
組織の論理に聡い個人はTOPに君臨しようとしない、仮にTOPに推挙されたとしても短期間でバトンタッチして次の組織に移って行こうとする。組織の創業者とは情熱も目的も違います。
創業者ならどんな小さな組織でも組織に対し創業者個人の連帯保証を半ば義務付けられます。これは言い換えれば創業した組織の経営がおかしくなると組織の損失を個人が被ると言うことです。総理大臣のように辞める事でだけで責任はとれません。
それに引き換え組織内の個人はどうでしょう?組織がおかしくなり退職の憂き目に会うと次の就職先が決るまで保険金が支給されたりします。組織内で上手に立ち回って組織を利用して少々悪巧みをしていても組織がおかしくなればドサクサでチャラになったりします。勿論すべてがそんな個人ばかりなら組織として成立しませんが、一定の割合で必ず存在します。
これらは企業と言う組織の場合ですが・・
組織には様々な組織があります。保育園から学校、教員組合やPTA.町内会や自治体、企業、医療団体、福祉団体、観光組合、労働組合、漁協、農協、役所の公務員、官僚組織、司法組織、行政組織、自衛隊、軍隊、警察組織、やくざの組織、宗教団体、政治団体、NPO団体、国家連合、・・・挙げ切れないぐらいあります。
組織ごとに目的があり、ルールがあり、恩恵があり、搾取があり、派閥があり、利権があり、責任があり義務もあります。個人は群れることにより保身をしています。個人は個人の弱さをしっています。個人は組織力を利用したがります。出来れば組織の中でより有利な立ち位置を模索し、組織の中で自ら為すことを出来れば少なく、見返りの恩恵は多くあることを望みます。実際組織の上層部はそんな個人ばかりかも知れません。
以前にこんな事がありました。近所の人気のフルーツショップで買い物をしていた時、レジで順番を待つ客の長い列を待っていてようやく自分の順番が回ってきて勘定をしていた時のことです。
レジのおばさんが全部で~円になりますと言ったので手持ちの一円玉で端数の帳尻を合わそうとお金を出したらレジのカウンターの数字がおばさんの読み上げた数字と違っていたのです、「あれっ?おばさん~円と言いましたよね!」確認すると、後ろの方から「何ぐずぐずしているんだはやくしろよ!~円のことで、俺が出してやろうか?」と聞き捨てなら無い声が・・
振り返るとイライラ顔をした爺さんでした。以後心の中の声で『俺は長く待たなかったのか?出してくれるって全部の勘定のこと?それとも端数の何円?万一全部ならお願いしたいがまさか端数の何円のことなら何ゆえ見ず知らずの爺さんに何円を恵んでもらう必要があるのだ』との思い出爺さんをにらむと、少し焦った顔になり「回りのみんなも長く待たされて迷惑しているじゃないか!」なぁ皆の衆!てな感じで回りを引き込もうと・・
周りの人は顔を背けていましたが・・又しても心の声で『そんなにみんなのことを気遣うなら爺さんが一番後ろに廻ってやれよ!』と言ってやろうと完全に振り返るとレジのおばさんがごめんなさい全部私の不手際です謝りますから堪えてくださいと言うのでその場は事なきを得ました。
私はお年寄りは長生きしただけでも人生の成功者だとある部分尊敬していますが、この爺さんは組織の中で上手く立ち回ってきただけの人生なのかな?残りの少ない人生をゆったりと暮らせばいいものを、公衆のまえで自分のイライラを理不尽に発散しちゃって、家に戻っても家族(いたとしたら)に不平不満文句ばかり言っているのかな?・・と考え言われ無き罵声に対し心理的に帳尻を合わせました。
お釈迦様は齢だけ重ね心の成長の無い年寄りのことを「愚老」というと述べられています。
これからは個人力のサバイバル時代です。腐った組織は聖域も例外もなく崩壊してゆきます。外からでもキラキラと個人の力が輝いて見えるような、やり方は違っても各々の個人が組織全体を持ち上げるようなそんな個人とスクラムを組んでサバイバルを生き残りましょう!