冷たい風が夜の森を不気味に走り抜ける。
僕は木の根に腰を下ろすと、冷たくなった指先に息を吹きかけた。
昨夜はロクに眠れなかった。
響子や桜子嬢は何も聞かずにいてくれたが、あの光景を見せて何の説明もしないというのは酷だったかもしれない。
けれど、すべての経緯を説明する余裕は今の僕にはなかった。
結局家にいても落ち着かず、リューイと約束した30分前にこうして待ち合わせ場所に到着してしまった僕がいる。
冬の目前に差し掛かった寒さは、自分の頭を冷やすのにはちょうどいい。
僕は目を閉じて、心の動揺と共鳴する草木のざわめきにじっと耳を傾けた。
やがて、遠くからザクザクと規則正しい足音が聞こえた。
目を開けると、目の前に穏やかに微笑む男が立っている。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いや、まだ時間じゃないし。俺が勝手に早くきただけだから」
そう言って視線だけで隣に腰を下ろすよう促す。
リューイが僕の隣に座ったのを確認してから、僕は小さく息を吐いた。
「ファリエルの様子は?」
「相変わらずですよ」
「そうか」
何から話せばいいのかわからず、その後はただ沈黙が僕たちを支配した。
僕の様子がおかしいことに気付いているのか、リューイは自分から口を開こうとはしなかった。
時折吹く冷たい風は、隙間だらけの僕の心にまで届くようだった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
そう意を決して、僕はすべての流れを変えてしまう覚悟で口を開いた。
「単刀直入に結論から言う。ファリエルの記憶にお前がいる」
「…どういう意味ですか?」
言葉の意味を図りかねたのか、気配だけでリューイが僕の方を見たのがわかったが、その視線を受け止めることは僕にはできなかった。
「冷静に考えれば、その変化はもうずっと前からあったんだ。だけど、俺にはそこで気付くことができなかった」
正面を見据えたまま僕は言葉を続ける。
一度切ってしまった口火は、驚くほどすらすらと言葉を紡ぐことができた。
「ファリエルは昨日俺に向かってこう言った。自分の兄はヴァイオリンがとても上手だと」
静かな空気の振動でリューイが息を呑んだのがわかった。
彼の顔を伺わずに、僕は躍動のない言葉を続ける。
「お前の本当の名前もハッキリと口にしていた。リジュエルお兄様と」
「ファリエルが…僕を?」
搾り出すような声が空に空しくこだまする。
僕はそこで大きく深呼吸すると、困惑した瞳をじっと見つめた。
「もう限界だ。お前の親父がかけた怪しい術も、もうファリエルには通用しない。お前の様子から見ると昨日の記憶の甦りは一時的なものだっただろうが、いずれハッキリ思い出す日がくると俺は思う」
「どうして?」
「そんなのこっちが聞きたい。だけど、俺はファリエルと二人で会うようになってから、徐々に彼女に人間らしさを感じるようになっていた。今思えば、それが危険信号だったんだよ」
リューイはゆっくり正面を見つめて、それから膝を抱えた。
僕たちの体温を奪う風は容赦なく吹き続ける。
ジャケットのポケットに両手を突っ込んで空に向かって溜め息をつくと、微かに白い息が一瞬だけ空中を漂って消えた。
「僕を…僕を思い出してしまったら、また同じ事を繰り返してしまう。それだけは何があっても避けなければなりません。これ以上過ちを犯してはいけないのです」
それは口に出さなくてもわかりきったことだった。
僕と同じように、この男も混乱しているのだ。
こうして言葉にしなければ、これからの不安に押し潰されてしまいそうな恐怖を感じているのだろう。
僕は愚かだった。
こうしてリューイを目の前にするまで、ファリエルを失うことだけに恐怖を抱いていたが、それはこの男に対しても同じことが言えるのだ。
僕はファリエルを失うのと同じくらい、リューイを失うのが怖い。
そんなことすら忘れてしまっていた自分がおかしくて、僕はフッと息を吐いた。
「翼様?」
「いや、悪い。なんかおかしくてさ」
僕はそう言ってリューイを見つめた。
自分でもきっと驚くほど自然に笑えていただろう。
「俺、ファリエルを妹とは思えないよ」
「でも…」
色の違う二つの瞳が迷うように揺れている。
この先何がどうなるかわからない、だけどこれだけはきちんと話しておかなければならない。
僕はリューイを見つめたまま、誰にも言えず閉じ込めていた想いを口にした。
「好きなんだよ。どうしようもなくファリエルのことが」
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今日は皆さんのところへお邪魔する時間がとれそうにありません。
すみません!
少しずつですが、必ず遊びに寄らせて頂きます。