異変の始まりはある日のよく晴れた午後。
いつものように僕の腕の中でファリエルが穏やかな笑みを浮かべる。
目の前にはたくさんのサンドウィッチやポテト、そして僕の好物である桃のコンポートが並べられていた。
「翼、これはなあに?」
桃のコンポートを指差して首を少し後ろに向けたファリエルが尋ねる。
「それは俺の大好きなデザート。桃のコンポートだよ」
「おいしそうね。食後に私もいただきたいわ」
「もちろん」
月子さんが用意してくれた昼食を挟んで、僕たちの前に響子と桜子嬢が腰を下ろしている。
はじめは警戒していたファリエルも、僕と彼女の仲に害のある人物ではないとわかったのか、目の前の女二人に少し打ち解けた印象を受けた。
この奇妙な食事会のキッカケは、もちろん僕が前回すっかり忘れて呪われた夜をすごした約束の延長だ。
相変わらずファリエルは僕から一瞬たりとも離れようとはしないものの、顔を合わせた直後に比べればずいぶんリラックスしているように見える。
あとは桜子嬢のように響子から悪い影響を受けないことを祈るのみだ。
ファリエルに会うにあたって、僕は響子と桜子嬢に事前に約束させたことがあった。
一つはリューイの話題は極力避けること。
それから、家族のことやこれまでの生活の一切に触れないこと。
理由を問うこともなく、二人は深く追求せず僕の要求を呑んでくれた。
女というのはどうでもいい他人の事情にも首を突っ込みたがる面倒なところがあるが、その点この二人に関しては空気を読んでくれるので助かる。
僕たち5人は、しばらく月子さんの作ってくれた豪勢な昼食を前に他愛ない話に花を咲かせ、穏やかな午後をそれぞれが楽しんでいた。
人数は増えたものの、それはいつもと変わらない光景。
出会った頃のファリエルは、もうどこにも見当たらなかった。
時間というのは恐ろしいものだった。
その変化に僕はやがて違和感を感じなくなり、むしろそれこそが幸せへの突破口だと信じて疑わなくなっていた。
誰に抱いたこともない感情は愛しさは募るばかりで、僕の心にこれだけの容量をしまいこめる深さがあったことに我ながら驚く。
ファリエルが放ったその一言は、そんなボケた僕の頭を叩き起こすには充分すぎるほどの威力を持っていた。
それはとても自然な会話の流れの中にあった。
「お花がお好きでしたら、今度私の家でガーデニングしませんか?」
そう言って桜子嬢がファリエルにニッコリ微笑みかける。
「花は好きだけど、庭を手入れしたことはないわ。とても楽しそうですね」
エメラルドの瞳を包む長いまつげをパチパチさせて同じように笑顔でファリエルが答える。
「翼、今度一緒に連れて行って」
「えー…」
ファリエルのキラキラした瞳を前に、僕は気まずくなって視線を逸らす。
正直言って、僕はそんなに花が好きではない。
しかも、この場所ならまだしも、桜子嬢の家ともなれば随分離れている。
状況を考えてリューイに尋ねるまでもなくNGだと判断したからだ。
「桜子はガーデニングが好きなのですか?」
「ええ。ファリエルさんは…」
そこまで言いかけて、ハッとしたように口をつぐむ桜子嬢。
ファリエルの趣味を尋ねようとして、僕との約束を思い出したのだろう。
「ちなみに私は武術!」
とっさに響子が口を挟んで、型を披露する。
「女性で武術ですか?素敵ですね」
ニッコリ笑ったファリエルが僕に視線を移して首を傾げる。
「翼は何か得意なものがあるの?」
「俺?うーん…」
「あら、アンタ昔ピアノやってたでしょ?今でも弾けるんじゃない?」
余計なところにまで口を挟む響子をギッと睨むと、僕は曖昧な笑顔をファリエルに返した。
「読書だ読書。本を読ませたら右に出る者はいない」
だが、彼女は僕の趣味が読書なんてどうでもよかったらしい。
パッと花が咲いたような笑顔を見せながら、衝撃的な言葉を口にした。
「翼はピアノが弾けるの?それはとても素敵ね。私のお兄様はヴァイオリンがとてもお上手なの」
「……え?」
彼女が指す兄、それが僕ではないことなど、その場にいた誰が聞いても明らかだった。
僕はこの時、遥か彼方で何を知らせるためかわからない鐘の音を聞いたような気がした。
