祖父の庭で、私は消えた。8月の、暑い午後だった。
祖父は勤勉な人間だった。仕事はもちろん、決まった日々をただ淡々と過ごすことに努めていた。普通の人間であり、普通の家族を持ち、普通の人生を送っていた。不満を感じることはあったのだろうか。今となっては知るすべはない。
祖父が死んでから、祖父の庭は過去の面影をなくしていた。そこかしこに生える草花は、何が何なのかさっぱりわからない。祖父の庭の生き物たちは、今になってようやく活き活きしているように見えた。
「だる。」
祖父の庭の生き物たちが生きていようがいまいが、関係ない。私は今目の前に広がるそれを片付けなければならないのだ。
「おじいさんが生きてたら、綺麗な庭なんだけどねぇ。こんな足だから。ごめんねぇ、めぐちゃん。」
後ろから、祖母の声がする。
「なんだこれ、熱帯雨林か。」
一人ぼやいてみる。辺りは、見たことのない雑草の巨大な葉が日光を求めて大きく背伸びをしている。葉の裏には小さな虫が集っていたが、至って健康そうに青々としていた。虫が苦手な私の顔色も負けてはなかった。
私は、手に枝バサミを備えているが、もうどこから手をつければいいのかわからなくなっていた。少しでも祖母の気分が晴れるように、伸びきった雑草を切り払おうと計画していたが、もはや思考を放棄し始めている。植物のおかげで強い日光からは守られているが、とにかく暑い。これは、引き返そう。あっさりと諦めた私は来た道を戻った。道、といっても祖父の庭は庭園などと言えるほど広くない。今祖母が座っている縁側から見渡せる、極小規模な面積なのだ。
しかし、どうもおかしい。
あたり一面緑の視界から、一向に祖母のいる縁側を見つけられない。
「おばーちゃーん」
「、が、から。そしたらちゃんとお礼して。」
と、返事が返ってきた。
「え、誰が。何が。え、」
急に孤独になった。直感で奇妙な空気を感じ、鳥肌が立つ。力なくツッコミを入れたが、あの祖母のおかしな返事は本当に祖母が言ったのだろうか。そう余計なことを考えてしまって、更に不安に陥る。小鳥の囀りや、風に遊ぶ木々の葉が擦れる音、日の光の穏やかな明緑の中。賑やかな静寂の世界に一人取り残された。
暑さを忘れられないまま、立ちすくむ私は、とにかく来た、と、思われる道を引き返すことにした。はたして引き返しているのかどうかもわからないが。
「おばあちゃーん。」
応答はない。それに、なんだか随分歩いたような気がする。時間が止まってしまったのかもしれない、などと想像する。夏は日が長いから不思議なことではないのだが。なんだかこの年で迷子になるなんて思ってもみないことだから、不安に駆られながらもどこかわくわくしている自分がいた。
私は小学生まで、祖父母の家で育てられた。殊更に祖父は私に甘かった。無口だったが、いつも傍にいてくれる存在だった。しかし、私の中で祖父は二人居る。優しくて健康的な祖父と、病院のベッドにいる祖父だ。祖父と過ごした時間は幼い私の薄ぼんやりとした記憶しかないが、それはたくさんの愛情を貰った。だが晩年は見栄も何もなく、病気に呻く患者だった。
祖父が大切にしていたミカンの木の陰に腰掛ける。人の記憶はなんて曖昧で自分勝手なんだろうと憤りを覚える。素直に祖父の死を悲しむことができない。自分が薄情に祖父を見ているような気がしてならなかった。
祖父はどんな人間だったのだろうか。私のこんな考えを聞いたらどんなふううに思うのだろうか。私が知る祖父は本当に祖父なのだろうか。未だに違和感を覚え、こんな考えを巡らせる。
いつの間にか考えに浸り、視界がぼやけて来ると頭上で鳥が鳴いた。見上げると四角い鳥籠があった。いつの間にか倉庫に仕舞われたはずの鳥籠。祖父がめじろをその籠で飼っていた記憶がある。
立ち上がって籠を覗くと、深緑の綺麗なめじろがいた。開けっ放しの籠に入ってきたのだろう。せわしなく飛び回っている。幼い頃縁側でよく祖父が餌をやっているのを見ていた。動物が苦手だった私が率先して近づくことがなかったそれは、今目の前にいる。
「綺麗だったんだなぁ。」
そういえば、いつのまにか鳥籠はみかんの木の枝から消えていた。あの時のめじろはどこへ行ったんだろう。
「おまえは、あの時のめじろさんですか。」
愛くるしい円らな黒い瞳がこちらを見ている。首を傾げる仕草が可愛らしい。それから、めじろ は鳴き声を上げて籠から飛び立った。
あぁ、そうか。死んだのだ。
あのめじろは別のめじろだし、あの時たしかに居た祖父は祖父なのだ。一貫して不変なものは存在しない。応じて変化することは健全なのだ。
「おじいちゃんの知ってる私は、もう随分昔に置いてきちゃった。」
祖父に愛されていた頃の私は年を取り、祖父の知らない私になる。祖父の人生の中に私が少しでも並行して歩くことができたことは、とても幸せなことなのだ。
暑さを和らげてくれる風が心地いい。耳を擽る緑の囁き。息を吸って吐いた。
「お礼、した?」
振り返ると、祖母が団扇を持ち、にっこりとして私を見ていた。ここは祖父の庭で、私は縁側の傍に立っていた。緑の霧は晴れて、私は何ら変わりない私だった。
「ありがとう。」
今度は、ちゃんと墓前で告げようと思う。
やっぱりミカンの木には鳥籠なんてないし、祖父の庭は見渡せる。私だった私の一部は祖父の庭で消えた。
祖父が死んで、なんかとにかく吐き出したくて書きました。
私おじいちゃんこです。
