思いつくまま書いたから


ごちゃっとしているし


テキトー発言


鵜呑み厳禁ッス


見えない世界の話だからニガテな方は気を付けて


空想と妄想の産物


これが真実だとは思わないでもらいたい


はっきり言って戯言です





見えない存在の


優しさとは何なんだろうね


高次元存在から見た優しさと


人から見た優しさ


それは違うのかも知れない


昔から世界は万華鏡のように一瞬、一瞬で変わる


それがとても早いのが今と言うだけ


見方というのものはどこに視点を置くかでどのようにも変わる


何を大切にするか


何を重点にして行くか


ただそれだけ


だから本当は何にもない


光も闇も


私は光側とか闇側とかそう言う見方が好きではない


ライトワーカーと言う響きも疑問視しているような人間です


何故❝光❞にこだわるのだろうと


闇と言うものに何故悪を押し付けるのだろうかと


ずっと疑問だ


その傾向は高次元の存在でさえそうだから


人はもっとそれが色濃い


その考え方を改めない限り


いつまで経っても光と闇は無くならないのだろう


光が正しいとは誰が決めた?


正解がない世界だけど


光だって間違うこともあるだろう


そもそも私からしたら


人も高次元の存在も光ではなく


ただの存在と人ってだけ


それ以下でもそれ以上でもない


だから何が光なんだかよく分からない


源が自身を観測するために用意した真逆のものが闇だった


だから光だと言いたい?


でも愛でもあったね?


何故愛と光は同じものと言うことになった?


それとは別に


愛があれば光なのか?


愛でないものは全て闇なのか


それは本当に?


精神性が高い方が光で精神性が低いと闇になる?


どこからそう言う区別が出来たの?


元々同じ存在同士なのに?


光と呼ばれる者や闇と呼ばれる者も


経験と考え方の差と見る視点の違い、生き方、学んで来たものによって大事にしているものが違う


本当はただそれだけなんじゃないのか?


もちろん自分自身で解決しなければならないことは自分でやらないとならないし


自分自身が蒔いたもの、それは刈り取らないといけない


それは自己責任であり、自分の経験と成長に繋がるだろう


それでもそれをどのように捉えてどう受け止めるかはその者次第


それは人であれ存在であれ同じ


結局スピリチュアルも見えない世界ってだけで


現実の物理世界と大して変わらない


肉体の有無だけ


放ったものがそのまま自分に戻るシステムだし


基本的には変わらない


陰陽、正負等は関係しているようだけど


それはこの世界の設定上やむを得ないことなのかも知れない


源は何故


相反するものをって


敢えて自分自身にないものを観るために用意した


いや、自分自身にないものではない


自身を観測するためだった


自身を観測する為の反対のもの


だからその反対であるものを光とした


けれど実際はどうだろう?


源から闇は生まれたし光も同じように生まれている


自分自身を観測するために反対のものを、、、とは言うけど


別に反対のものでなくても本来観測は出来るはず


それを敢えて相反するものを創り出した


これにはどんな意図がある?


寧ろ、意図と言うより


そうなってしまった??


自分自身を観測するものを用意した


用意した者は源を愛と認識した


またある者は源と最初に生まれた者を光と認識する


光と愛を認識したのち


沢山生まれた観測する存在たちは


光である故に


闇を生み出した


二元性の設定だとそうなる


光があるのなら闇は必然的に誕生する


愛がある者がいるのなら愛のない者も当然出て来る


それはこの世界の設定が白黒だから


この世界の設定が❝この世界にだけ適用されたもの❞なのなら


これは源もしくは源ではない第三者の意志(願い)によるものかも知れない


いずれにせよ


善意であろうとすると悪意が生まれるシステムになっている


だから平和であろうとするとその反対のものも創られる


そのように働きかけるシステムだから致し方ない


ただ悪意側への配役はどれ程に苦しいだろうか


ここに本質を見ないまま


ただ許しがたい行為を見て感情を揺らし


中には排除しようとする


それが今までの歴史


戦いが好きなのではなく


完全にこの世界設定の配役にのめり込んだ結果


二元性の終わりは見えない


一元性にはなれないだろう


一元性にはなれずとも


二元性的なものの見方は今からだって出来る


どちらも持ってどちらにもならずに過ごす


それだけ


二元性の世界で二元性ではない中庸な立場を取る


片方しか持たないようにしてしていた光と闇双方を自分自身のものとし


それでいてどちらにもならずにいる


光にいると光に飲まれる


闇にいると闇に飲まれる


もちろん光側から見た光と言う存在や光側から見る闇側の存在はどんな風に目に映るのかそう言う体験も良い


その反対に闇側から見た闇と言う存在はどう見えるのか、闇側から見る光はどんな風に感じるのか、それを体験するのも良いだろう


でもそれは今の今までの話


これをやって


役にのめり込んだ結果が


とても重たい宇宙の誕生


高次元の存在そのものもジャッジする


見えない存在や宇宙に委ねることに躊躇いのある世界


何を考えているのかはっきり言って分からない


悪意に満ちた行いを容認したり許可など出来ないけれど


世界が意識で変わるのなら


二元性と言う根本的なものの原理を使いながらも


そうならないようにして行くしか浮かばなかった


そうなると非二元性と言うことになる


一元性は源そのものの状態だから


現実世界がそうなるにはあらゆるものを削ぎ落としてしまわないとならない


そうも行かないのがこの物理世界


光を体験すると闇も体験することになる


そう言うことになるけど?


いつも光を選択していれば闇にはならない?


でも光として選択するのならどこかに闇の選択肢を創っていることになる


二元性を相反する世界とするのならそうなるのだろうな


そしてそれを外に置くのなら益々光と闇は濃くなり溝が広くなるだろう


けれど確かに光の選択肢はある


では愛の選択肢にしたら?


すると愛なき選択肢が用意される


きりがないように思えるこの問いも


自身の内側からの答えには適用去れない


何故なら既にどちらも持っており


単純に自身の中の答えに従っただけだから


この世界の設定は本質には適用されない


本質は源と全く同じだから


自身の外側の設定だけが二元性である


そして配役がある


その配役も外側に用意されたものであって


本質ではない


だから自身の内側の答えは本質に沿ったものであるから


この世界設定は適用されず


相反するものを生み出さない


※あくまで内側での話


そして意識の在り方で如何様にでもなる世界


意図して生きるとはそう言うこと


この二元性の設定すら


意図次第で変えられる


多くは集合無意識が働くから大きくは変わらないだろう


けれども


意識は深い部分で繋がりを持っているし


この世界は響き合いで出来ている


自分で創造すれば良い


源と同じように創造する力を有しているのだから


それは万人に与えられたもの


誰でも使えるとっておきの魔法


魔法には


忌み嫌う❝魔❞が入っている


これはどう言うことか分かるだろうか


つまり


あらゆるものは使い方次第


見方を変えるだけで


どのようにも変わる


どこに視点を持ち


どんな気持ちでそれを見るか


心に何を置いているか


頭で何を考えているか


色んなものが関与して総合的に一番強く働くものが現実(外側)を見せて来る


多分ね


何が本当かなんて私には分からない


分からないなりに思考した


今現在の私なりの見解はこれ


でももしかしたらまた違う見方に変わってるかも知れない


何故なら私は無知なので