永久凍土のブログにようこそおいでくださいました。

 

 

 

ファンタジー・オン・アイスの静岡大楽公演を観た興奮の勢いで少し書きます。

 

日曜日までは日があるので、親友Sちゃんが、横浜を案内してくれました。

 

山下公園や港の見える丘公園のバラ、洋館のたたずまいなど、美しい写真をいつも見せてくれていたので

 

いつか自分もその世界に行ってみたいと願っていました。

 

かなえてくれたSちゃん、ありがとう!

 

結婚式の貸切で、今回は予約できませんでしたが

食事もできる洋館

 

 

手入れの行き届いた山下公園のバラなどを見て、

 

氷川丸の写真を撮りました。

この氷川丸には、父が乗組んでいたことがあるんですよ。

 

 

 

古いアルバムに写真が残っています。

 

どうしてか文字が反転していますが

 

どこの港か分かりませんが、ほかにも多くの船が見えます。

 

裏には昭和21年、とありました。

 

*****

 

父は三男で

 

長男 は従軍中に病気で死亡

次男は戦艦武蔵に乗船し、武蔵が沈没した際には生き残り


別の戦艦でフィリピンに上陸後、敗走のちクラーク飛行場附近にて戦死

三男の父は高等尋常小学校1年の途中で

口減らしのために神田の卸問屋 吉安(よしやす)に丁稚奉公に出される。


吉安というのは、神田川から荷物を舟で送っていた金物問屋だった。


当時、神田や日本橋には、

川船を持ち、発送をしている会社が多数あった。


父は荷造りをしたり運搬の仕事をしたりしていたが

 

当時の父ぐらいの年齢の子供を働かせるのは、

商店法?で違法であったらしい。

 


そんな問屋に対して心の内で反発していた父は

 

14歳の時、問屋を飛び出してしまった。

 

乗組員を募集していた海軍の船舶運行部(船を徴用して軍で使う)の事務所がある横浜に行ったところ、

 

直ぐに乗せたいと言われ、横須賀まで電車で移動し

病院船天応丸に軍属として乗船した。


天応丸はオランダの病院船だったが、不法に日本軍が使った

(と父は言っていた)。


日本はオランダ領だったジャワ、スマトラを「解放」し、オランダ人を抑留して船を分捕り、張りぼての煙突を付けて擬装した

(と父は言っていた)。


表向きは病院船だったが、その任務の傍ら、船の水平のために水を入れる船底のタンクに燃料を積み、サイパン、トラックに燃料補給のために運んだ

(と父は言っていた)。

終戦間近、日本海で証拠を無くすために爆破して沈めたが、その後オランダに賠償した。

海兵隊基地の隣にあった技術学校の武山海兵団で電気、通信の勉強をしているあいだに終戦を迎えた。

戦後は復員局の氷川丸に乗船し、電気の係をすることとなった。

復員する人を浦賀の久里浜に運んだ。

 

浦賀は復員船の溜まり場だった。

母と出会う前の父(右)です。

 

生まれる前から、横浜にはご縁があったのでした。

 

 

 

 

横浜中華街の話に続きます。