2002年9月17日(火)
母、まさみが
この世を去りました。
享年52歳
姫路城が窓から見える
市内の大きな総合病院に
検査入院したのは
前年
2001年1月
年が明けてすぐのことです。
当時、札幌市内に赴任中の兄(営業マン)と
・メシでも食べに行こう
と電話で約束した直後のことです。
翌日、
父から私に電話がありました。
・今日、母さんが倒れた
・来週、検査結果を聞きに行く
たしか、そんな内容やったように
記憶しています。
最悪の検査結果を知らされたのは…
応募を検討していた
とある企業様の企業説明会で、
企業理念や
今後の海外展開の展望の
説明を受けているときでした🚚=3, 🐈⬛…。
父
・なんべんも架けとるのになんで出んのやっ
私
・マナーモードにしてたんやっ
どーでもいいことで
大きな声で
やり合ってしまいました。
🎬
胆嚢癌。
↑
母の体内に拡がりつつあった細胞の名前。
嗚呼、いつのまに。
春、
兵庫県の教員採用試験を突破して
兄が姫路に帰ってきました。
私(大学四回生)はというと
卒業に必要な単位を山ほど残し
どうにも興味を持てない
言語学の講義に出ては
目から耳から鼻から煙を出す毎日でした。
ゼミのみんなが次々と
内定をgetするのを横目に
焦燥感にかられる毎日でした。
夏のおわりに
ようやく
とある企業様から内定を頂戴しました。
人事部長様から
・くれぐれも留年されませんように
と念を押されました。
「第二言語ノナンタラカンタラ」
と銘打った学術論文(卒論)の執筆に
取り掛かるのは取り掛かったのだけど、
ろくに授業に出ていなかったので
参考文献に目を通すも
なにがなんやら
ちんぷんかんぷんでした。
はっきりいって
お手上げ状態🙌。
ゼミのみんなが着々と
教授の指導のもと
論文を完成していくのを尻目に
焦燥感にかられる毎日でした。
自分が蒔いたタネとはいえ、
胃痛に下腹部を抑える毎日でした。
卒論 提出締切りの12月20日。
提出を求められる20頁のうち
9頁しか書けていませんでした。
中身、スカスカ。
そもそも
担当教授にcheck✅してもらってないので
受理されるはずがないのですが…。
留年確定(4文字)
内定取消(4文字)
学費、どないすんねん
てか
母ちゃんにどない、説明すんねん
年末から年始にかけて
頭の中は8文字でいっぱいでした。
明けて迎えた
2002年1月
私の怠慢により、
四年で卒業できなくなった旨を
伝えるため
内定先の企業様を
謝罪訪問しました。
おでこに手をやって
・うわー、危惧してたんや。
と、人事部長さま。
・で、どうしようと考えている?
自分の意思をお伝えしました。
・追って連絡します
2002年9月の
秋卒業の日まで
内定保留にし、
卒業を待って下さることに。
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
手強い病いと必死に闘っている母
また
献身的にサポートをしている父
に
事の顛末を報告するのは
とても
気が重たかったのだけど、
とっても、とっても
重たかったのだけど…、
隠し通せるものでないことは
誰の目にも明らかだったので、
包み隠さず
可能なかぎり正直に、
まずは
父に
そして
兄に
報告しました。
市内一帯に響き渡る雷声が
父から。
海よりはるか深い溜め息が
兄から。
けっこうなことばで
罵倒されました
頭を下げるより他ありませんでした。
・母さんには伝えておく。
・ええ言うまで家には帰ってくるな。
・見舞いにも来るな。
と父。
2002年3月
叔母(母の姉)が所有する
空き家に入居し、
・大学五回生
・半社会人
として
ReStartを切りました。
つづく。
たぶん。
【おまけ】
2002
日韓ワールドカップ
⚽️
当時を思い出してしまう
苦い大会です
😅