狩猟サバイバル | Talk Like Climbing

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山男洲鎌猛雄の山・クライミングとそれにまつわるエトセトラのブログです。

なお、いかなる団体、企業とも関係ない一個人のブログです。

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服部文祥著。みすず書房。

『サバイバル登山家』が野草や釣りが主体だったのに対し、今度は狩猟がメインテーマ。

筆者の第1作『サバイバル登山家』の「肉屋」という章で、パキスタン・フンザで牛の屠殺現場に居合わせた時の経験が綴られていた。そのときは「山の本で何でこういう話を書く?」ときょとんとしたが、どうやらあの話はこの本、もっと言えば氏の方向性の伏線であったらしい。スーパーに行けばパックに包まれた肉が簡単に手に入る現在において、氏の中で哺乳類を自分の手で殺して食するという行為がどういうことなのか、きちんと殺生を実体験することで整理したかったようだ。それは農耕民族である日本ー尤も弥生時代からの話で、それ以前に旧石器時代や縄文時代の方が長いのだろうが、日本という国が形作られてからは農耕なのでさておくーで、ある種「穢れ」として忌み避けられてきた文化の特色もあるのだが、それが『サバイバル登山家』『サバイバル!ー人はズルなしで生きられるのか』で見せていた、フリークライミングを原点とする、原始的サバイバル思想と見事にリンクして、狩猟が登山中における食料調達手段として活かされた。


第2章は従来からの釣りを活かした和賀山塊銃弾の話で、第4章と第6章は狩猟の解説といった内容だが、それ以外は実際に鹿を撃ち殺した経験が生々しく綴られている。冷静に考えれば相当グロテスクな話のはずなのだが、何故かすらっと読めた。実経験がないが故の想像力欠乏なのか氏の筆力なのかよくわからないが、氏の葛藤がやがて昇華されていく過程が読み進めていくうちによくわかる。その分本人も認めているように思想の変化も見られているが、それは決して矛盾ではない。銃の使用など、彼の中で狩猟が徐々に整理され、自分のものになっている証拠だと言える。


やはり山屋として読み応えがあったのは、実際の登山に応用した第5章と第7章の南アルプス登山だった。第5章はやや麓に住む人の登場回数が多い分野性味がある一方人臭さが抜けないが、第7章間ノ岳登山は課題はあるものの完成度が高い登山になっていると思う。下山時に感じた自然との一体感は、何もサバイバルに限らず山屋なら感じた経験のある類のものだと思うが(私も冬の知床や鹿島槍北壁で感じたことがある)、ヒエラルキーから解放されて純粋に自分のやりたいスタイルを貫き通した氏ならではの達成感がひしひしと伝わってきていい。


故植村直己氏が北極圏の旅で北極熊やアザラシを撃ち、オヒョウを釣って食べていたのに比べると、フィールドが違うというのもあるが、流石に「手段」を「「目的」に意識している分頭でっかちになって理屈が先走っている感がないでもない。『サバイバル登山家』でもそうだったが、文章力は卓越しているものの理屈っぽく長い文体は恐らく好みが分かれるだろう(私は好きだ)。


しかし、乏しい経歴しか持ち合わせていない私も経験あるが、単独行や危険な冬季登山なんぞをやっていると、何故か山屋は哲学者になる。「生きる」ということに対し必死になっている分、どうしてもそこに「何故」を持ち込み、深く考えざるを得ない。時間や空間を恒に考えることを強いられ、そこに意味や充足感を求める。それは人によって好み・ベクトルも変わっていくが、そこから経験に裏打ちされた人間の血や肉が生まれてくる。それがこの詳細な文章からよく伝わってくること自体は、万人が認めるところだと思う。


語るべき現場での体験を通して深く生きていきたいという筆者の思想をまとめるには見事に成功していると言っていい。まだまだ過程だろうが、これがどう昇華され、どう表現されていくのか?今後もこの人からは目が離せない。