綿のような雲に覆われた景色が、航空機の穏やかなエンジン音を伴奏に、ゆっくりと流れていく。私の考えは静かに揺れている。心地よく瞑想的な機内音楽が聞こえる。
弟は物思いにふけり、熱心に何かを考えているようだ。腕の届くごく近い距離に座っているが、彼の思いはとても遠くにある。この青い空よりもさらに遠くに。

 

─アップルジュースをお願いします。 私はキャビンアテンダントに言う。
─あなたには?  彼女はニコライに尋ねる。
─水をお願いします。スティル・ウォーターを。  彼は答える。

 

それをゆっくりと飲みながら、私たちは、翼の上で遊ぶ黄金の太陽の光線を眺める。雲の数はだんだんと減ってゆく。突然、パイロットが片翼を下げてゆるやかに旋回すると、目の前に海岸線が現れた。


─見て。 弟が私に触れる。─アイルランドだ。

 

 

到着ロビーで、我々は友人たちの輝く笑顔に迎えられた。


─ようこそ! 彼らは明るく挨拶をする。─フライトはどうでした?


車窓には見慣れた家々が流れる。ある家は見つめるように、ある家は太陽が反射する小窓とともに笑いかけるように。コーリャは何を考えているのだろう、私は思う。この遠い国にある優しい街は、5年前の2012年、彼をとても優しく受け入れてくれた。流れ行く通りにコーリャが見るあたたかい景色が、私にも伝わってきた。


 

私たちはダブリンの街を散策することにした。ここの空気はとても新鮮で澄んでいる。心地よく大きく息を吸い込むことができる。


今日はリハーサル、そして明日はコンサートだ!

 

私たちはあたたかい家族のような仲間と食卓を囲み、ラフマニノフについて、その複雑で困難だった人生のことを語り合った。コーリャはラフマニノフの音楽の奇跡的な復活と、2番と3番の協奏曲の成功について話して聞かせてくれた。ラフマニノフの音楽は、地球の奥底での長い冬眠から脱してきたような、力強い流れを持っているのだ。その美しいハーモニーと、クラシック音楽の川床で熱されたエモーションの流れによって、聴くものを魅了するのだと。
私たちは、明日のコンサートのはじめの音のしずくが、すでに我々の感覚の中に流れ始めていることを感じた。

 

 

人混み。実にたくさんの人たちがいる! その人混みの流れを押して進んでいく。私は大きな興奮を感じていた。
静かに席につき、目を閉じて気持ちを整える。頭の中に、いくつかの光景が鮮やかに浮かんでは消える。ロシア。ダブリン。ラフマニノフ。ニコライ。明かりが落とされ、雷鳴のような拍手の中、今夜の魔法使いたちがステージにあらわれた──優れたオーケストラとすばらしい指揮者、そしてゆるやかな巻き毛でほほえむピアニストだ。

 

私たちは陸を離れた。自分が言葉にならない美しい流れに身を置いていることに気が付く。流れは私をしっかりとつかんで、運んでゆく。その荒々しく激しい音楽の潮流の中を、運んでゆくのだ。雄々しい急流の中を飛んでいると、ふと波をあびそうになるが、ニコライは自信を持って舵をとる。喜びがホールを満たした。


最後のコードに来た。休止。音楽のもやの中に、ゆっくりと港の輪郭が現れる。我々は本当にずっとこのホールにいたのだろうか? 大きな安らぎ。まるで一生涯が音楽とともに過ぎ去ったかのようだった。心臓が早く打ち、大きな喜びを感じる!
耳をつんざくような拍手が起きる。ブラヴォ! 誰もが熱狂し、歓声はますます大きくなっていく。このすばらしい音楽の船の旅人たちは、席を立ちあがり、称賛をやめない。ブラヴォ! ブラヴォ! すばらしい!

 


 

拍手の嵐は鳴りやむことなく、あちこちから歓喜と幸福の音が聞こえるようだった。感謝の気持ちを込めた美しい花束を次々と手渡す人の列ができた。その中にはいくつもの見覚えのある顔があった。コーリャを応援するために遠いところからはるばるやってきてくれた彼らに、私は心の中で感謝した。

 


 

拍手は続き、この特別な夜の音楽をそこに引き留めているようだった。終わらない喝采の中、ニコライはピアノのもとに向かう。
その瞬間、私たちは再び音の急流の踊りの中に身を浸す。少しスピードを落とし、ターンし、もう一つターンすると、覚えのある音楽が始まる。私たちはカルメンとともに、穏やかに加速したり笑ったり。笑顔が広がっていった。

 


コンサートホールの明かりが落ち、クロークから最後の上着が取り出されると、人々はゆっくりとダブリンのあたたかい街の中へ流れ出す。このような音楽の旅を体験すると、私はいつも、夢と幻想の国で人々がお互いに少し近づき、どこか友のように、そして、時を超えた芸術の既知であり未知の道をさすらう、歓迎された客人になったように感じるのだ。

 

友よ、また次の旅でお会いしましょう!